あたりまえ

生活

あたりまえ
 私は、この言葉はあまり使わない様にしています。
 例えば、家族の在り方についてですが、人により様々な、”こうあるのがあたりまえ”という思いがあるのではないでしょうか。夫が働いてお金を持って来るのが、あたりまえ、妻は家の事を全てやるのが、あたりまえ、などのことです。そして、小学生は、中学生は、高校生は、大学生は、大人は、社会は、国は、世界はなどと、たくさんのことに、自分だけの、こうやってあたりまえ、また、こうあってあたりまえがあると思います。
でも、そのあたりまえとは本当にそうでしょうか。そうでなければならないのでしょうか。相手にとってもあたりまえでしょうか。私には、この、あたりまえという思いや言葉が、何か窮屈に感じられます。それが、私がこの言葉を、あまり使わない理由です。
 人には、何に対しても、一人一人それぞれの、自分のあたりまえがあって、それを元に関係を維持しようとするのだと思います。それがうまくいってる間は、それでいいのかもしれませんが、人は変わりますから、なんとなく、悶々とする感じがしたら、それが何であるかを、きちんと自覚した方がいいと思います。そして、今までやってきた事が、嫌になって、もうやりたくないと自覚したとします。それでも、自分がやってもいいと、納得できるうちはまだいいかもしれません。しかし、本当に嫌なら、一言、もうこれは嫌なので、分担や交代をお願いしたいですと言えばいいと思います。この時に、相手の人に、それは、あなたがやるのがあたりまえと言われて終わったら、反応の仕方として、少し思いやりに欠けていると思います。せめて理由を聞くとか、お互いのスケジュール調整上、分担や交代が可能かどうかなどを、よく話し合えば済むかもしれません。
この様に、あたりまえという思いは、意外に思いやりに欠ける言葉や態度に出る時があるのです。例えば、奥さんに何かしてもらったときに、何も言わないとか、うん、おお、といった反応には、”あたりまえ”の思いが入っている様な気がします。でも、それが一言、
“ありがとう”だったら奥さんの気持ちは上がると思います。
こんな些細なことの繰り返しが、次の現実を様変わりさせるのだと思います。私も、結婚当初は、自分の育った家庭をイメージしてましたから、相手に対して、いろんなあたりまえがありました。妻も、自分の育った家庭をイメージしてますから、お互いのあたりまえを前提に接しているとぶつかります。
それで、何回も喧嘩を繰り返して、自分達のパターンを作りました。その過程で、あたりまえを前提にするのを減らしていきました。今はほとんどこの言葉は使いません。あたりまえと思うことがありますが、その時は、自分で言動に注意します。自分のあたりまえは相手にとってのあたりまえではないからです。そのかわりに”ありがとう”が増えました。
こうなるまでに、長い時間と労力がお互いかかりました。だからといって、別に、この様にすべきなどの、”ベキ論”を話しているのではありません。自分達にも、義務化しているのではなくて、”あっ”と思ったときに、少し意識し直す感じです。
要するに、こうした方が後々楽で、今も次の瞬間も愉しくなるのが分かったから、その様にしているだけなのかもしれません。ちょっとしたことをわざわざ問題化しないとか、大抵のことは、しっかり向き合って、丁寧に対応すれば何とかなるものだと思います。
この考えを、国と国、社会システムなどにあてはめてみると、いろいろな矛盾点や疑問、不明点などがたくさん出てきます。しかし、調べようとしても必ず壁が現れます。一つの例を挙げると、税金や寄付金などのお金の流れが分からないのです。どこかの誰かで止まるのです。どこかの誰かのあたりまえを強制している結果だと思います。おかしな話ですね。しかし、今はこれをほとんどの人が受け入れてしまっているのが現状だと思います。
 私達は、これからの地球をより自由に楽で愉しくするには、誰かのあたりまえを簡単に受け入れない様にすることと、何かしら違和感があれば、受け入れない様にすればいいと思います。逆に、自分のあたりまえを強制しないことも重要だと思います。お互いに、きちんとした合意があり、強制が無いのが前提です。つまり、個の独立と融合が重要です。
私も、少しずつでも、無理しないで行動していきたいと思います。

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