なぜここにいるのか
私達人間は、なぜ”ここ”にいるのでしょうか。一体、こんなにも長い間、何をしているのでしょうか。何をしたいのでしょうか。
「突然何を言い出したんだ?」と思ったのではないでしょうか。
私は、意外に多くの人達が、「私達の存在の目的は何?」「何かしらのゴールというのはあるの?」と感じたことがあるのではないかと思っているのです。
私達人間の様々な営みの始まりは、一元なる我が、”自分を知りたい”と思ったことからではないかと思うのです。
大元が一元の命とすれば、自分を知るには自らを写し見る何かがなければ分からないのではないでしょうか。そう思った大元は、一元なる自分を二つに分けました。それから”必要に応じて”どんどん分けていったのでしょう。なので今存在している一人一人は、必要があってそこにいるということになります。つまり、”いらない人”などという人はいないし、ましてや、”偉い人”とか”偉くない人”などという人もいません。つまり、元々一つなのですから、大元にはそんな分離感などありません。そんな分離感など私達人間が創造した錯覚に過ぎません。あるのはそれぞれの役割です。
因みに、その一人一人を、いわゆる”分け御霊”と言うのです。
また、大元は、それぞれ一人一人に、個性や自由意志を与えました。それ故に、分け御霊は、目の前の事象などに対して、その個性に応じた表現をしてきました。それら一人一人そのものが大元でもあるのです。
大元は、それらの分け御霊に、忍耐強い人やすぐ諦めてしまう人、切り替えが早い人や遅い人、また、自立心の強い人や依頼心の強い人、厳しい人や優しい人など、対象的な個性を与えました。それらを通して、その極みがどんなものか見たいが為に、いろいろやり続けさせているのかもしれません。別の言い方をすると、極闇と光の間に私達は配置されているのかもしれません。その中のいろいろなところを経験して今に至っているということです。それらのすべてを飲み込む事が出来ないと大元とは融合できないのだと思います。つまり、大元と融合するということがゴールなのではないでしょうか。
分け御霊である私達の中で、この仕組みに気付いて、さらに無限のバイブレーションになった人が大元に融合するということなのかもしれません。それは、愛に気付いたけれど、愛そのものを生きてなければ融合できないということになるのだと思います。それを例えて、遊び疲れたら我元に戻りなさい、と言ったり、まだ遊び足りず(やり残しを)やりたい人は、極闇から光の間のどこかの役割を演じるということになるのだと思います。
そう考えると、辛いとか、嫌だとか、もうダメ、などの様に感じる様々なことも、実は、
“ただそうなだけ”ということなのかもしれません。そこから、何を感じ何を学ぶのか、ということが大事なのでしょう。”自分にはこんな面があるのか”とか、”こんなことまでしてしまうのだな”などと自らを確認しているのかもしれません。その様なことを物理学者の保江さんなどは、”大元は、もしかしたら退屈凌ぎに楽しんでいるのかもしれない”と言ってます。本当にそうなのかは分かりません。
本当の自分のことを「我、五感にあらず、感情にあらず、理性にあらず、我、大元(神、命、愛、本質、真理、光、無限意識など)なり」または、「私は愛、私は光、私は真実」それが私です、などと語る人達がいます。これをマントラとしているようです。これなども、本当の自分を思い出す有効な手段なのかもしれません。
私達人間がここにいて様々なことをし続けているのは、本当の自分に目覚めて、それそのものを生きられる様になる為なのかもしれません。それを、上江洲義秀さんは、「真我覚醒(まずは真の我に目覚める)、(それから)真我顕現(真の我としての表現)(を無限に続ける)」と話しています。そして、彼はこう言います。
「この世のすべてを飲み込み、無限の至福の大海に錨を下ろす」
これがゴールです。そこからは無限です。
私は今日もこの境地に至る努力を続けようと思います。
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