そのものであること

意識

そのものであること
 私達人間は、生まれてから今に至るまで、この世の知識を得るためにたくさんの時間を費やしています。その理由は、人それぞれであり、様々なものがあるのだと思います。私はそれらが何であろうと、それらを否定するつもりはありません。
その様に、私達人間がこの世の知識をたくさん得ようとする理由は何でしょうか。その一つに、幸せになるためというのがあると思います。多くの人達が、この理由のために、あれやこれやと、いろいろなことをやり続けているのだと思います。
では、幸せとは何でしょうか。これも人それぞれの捉え方があるのではないでしょうか。私は、幸せとは、自分自身の本質というものに対する理解度によって、その捉え方が異なるのだと思います。また、この世をどの様に解釈しているかによっても、その捉え方が大きく違ったものになるのだと思います。具体的に言うと、自分の本質とは肉体だと認識しているか、それ以外(魂、命、エネルギー等)と認識しているか、また、人間の生とは、この世オンリーと捉えるか、別の世界があると捉えるかによって異なるということです。だから、様々な捉え方をする人々それぞれの幸せを得るためのやり方は、それらの捉え方によって大きく違ったものになるということです。
自分の本質は肉体であり、人間の生はこの世オンリーと認識するならば、この世の知識をできるだけたくさん習得し、お金や物質をたくさん得た方が幸せになると考えるのは当然なのかもしれません。もしこの世オンリーということが本当ならば、今の世の中がこの様に争いが耐えないものになっているのも理解できます。でも一方で、こんな争いの絶えない世の中に生まれてくるのは嫌だし、こんなところで生きる意味はあるのだろうかとも感じます。生まれて、金持ちになって優雅に生を終えてそれで終わり、貧困の極みで生を終えてそれで終わり、死んだ後は意識も何も無いなどということが、もし本当ならば、皆さんはどの様に感じるでしょうか。生きる苦しみ、老いていく不安、病気になる恐怖、死の恐怖を絶えず抱えながら営む生に何の意味があるのでしょうか。ここを解決しないと地に足がついた生き方など出来ないのではないでしょうか。
「本質は無形、無双、無色、無臭、無音です。それを表現するためにたった一つの材料で目に見えるものすべてを作っています。人間、動物、植物、鉱物、微生物、星、宇宙などすべてです。それらはすべて本質の中に生かされています。そして、それぞれに役割があります。人間は自由意思を与えられており思い、言葉、行為にて我を表現します。本来は愛そのものを顕現する為に遣わされています。動物は本能を、植物は本質の美しさを、鉱物は親和力を表現します。この様に、存在物それぞれには役割があります。人間は、すべてを生かして生きる役割があるにもかかわらず、自らを肉体と錯覚するあまり、本来の役割から外れてしまっているのです。人間には、自らの本質を追求して、自覚する権利まで与えられているのに、それすら忘れて、思いたい放題、言いたい放題、やりたい放題してきました。まずはこの本質を理解することから始めないと正しい答えを見出すことはできません」
この話は、上江洲義秀さんの言葉を要約したものです。この話を聞いて、私が思うのは、人間は、久遠常在、不滅の実在だということであり、また、神の分け御魂であり、すべての創造の源だということです。このことを自覚する(そのものを生きる)ことができて初めて地球での生活を楽しめるのだということです。いずれそうなるのだそうですが、今はそこに向かう途中にある様です。その到達点へ行く過程が、争いの絶えない状態を経験しながら行くのか、そんな嫌な経験をしないで、共存、共栄、共生しながらそこへ到達するのかは、私達人間の意識次第だと思います。一人一人が責任を持って自らの思いを修正するかどうかです。他を正すのではなく、自らを正すということです。たぶん、これができるかできないかで辿る道が決まるのだと思います。どうせなら楽しく行きたいと思いませんか。
 因みに、私の幸せは、自分の近くにいる人や出会う人と楽しく過ごすことです。互いに思いやりながら、少しの強制もないというのが前提です。簡単に言うと、共存、共栄、共生が前提にあるということです。その様にする意思を持ち、そのための努力をするということです。
しかし、現実を見てみると、争いの絶えない世界が続いています。やはり、少しでも人より先んじて生きたいという意識の人が多い様な気がします。それが集合意識に影響しているのだと思います。この思いは分離感から来ます。自分はあの人より上だとか下だとかの意識です。そんなものは本質的には無いということに気付くことができれば、なにより当の本人が楽になるのにと思うのです。実は気付いている人はかなり多いのではないかと私は感じるのです。では、なぜ分かっているのにできないのでしょうか。
それは、本質の自分を自覚していないからです。そのものを生きてないからです。観念や概念で分かったことにしていて、実際にはそのものを生きていないからです。これが出来てないから不平不満が出てきたり、怒りや恨みや嫉妬に苦しむのだと思います。自分と誰か他の人に優劣などの思いを認識すると生まれる感情です。だから、私達人間は、”そのものであること”ができているか認識することが大切なのです。すべては、本質的には何の違いもないのです。

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