名前のいらない世界
今日の様な、そぼ降る雨の日は、なんとなく、気持ちが沈みがちになります。朝起きてさあ、ウォーキングに行こう、という気持ちが少しだけ萎えてしまいます。でも、晴れていると、気持ちも上がるものです。やはり、今日みたいな日は、少し身のこなしが鈍ります。でも、こんな日に抱く感情も、実は、面白く感じるもので、わざとどっぷり浸かってみたりします。油断すると、気持ちの落ち方が思ったより大きくて、回復に時間がかかることもあります。自分でも何をしてるのかと思います。こんな状態の時に、近くに人がいたら、あまり良い影響を与えないかもしれないなと思います。だから、こういうことをしたい時は、なるべく一人の時にしたらいいのだと思います。感情を味わうゲームみたいなものでしょうか。
こんな時も、なぜそんなことをやるのか、という自分の動機を追いかけると面白いかもしれません。内に内にと追求していくと、自分の本質に近づいていくのかもしれません。たぶん、そこは、深海の様に、波立つことがない世界で、その時の自分の魂レベルでストレートに受けるものが綺麗に、歪みなく見ることができるかもしれません。表面意識で受けるものは、かなり波立った感情で受けるので、いろいろなものの本質を捉えられないのかもしれません。本当は、美しいものが、歪んで見えてお化けの様に見えたり、本当は醜いものが、それほどでもなく見えてしまうのかもしれません。
だから、私達は、静心を保つことが大切なのだと思います。それを保てたら、そのものの本来の姿をきちんと見ることができるのだと思います。静心を保つには、自分の内に内にと入っていかなければならないのかもしれません。つまり、自分が、何かをしたい時、何かを思った時の動機を詳しく探るのが、自分の本質に到達する、一つの方法なのかもしれません。それをやり続けていたら、本当の自分を思い出すのだと思います。そして、完全にそこに到達したら、名前のいらない世界に入るのだと思います。それが、大元の世界なのかもしれません。
そんなところへ向かうきっかけになるのならば、今日の様な、なんとなく鬱陶しい、そぼ降る雨も美しいものだと感じます。要は、自分が、すべてのものを、どの様に受け取るのかなのだということです。
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