それぞれの理解力

意識

それぞれの理解力
「私はまだ悩んだり、苦しんだことがありません」
 この言葉は上江洲義秀さんが講話の際によく話す言葉です。いきなりこれだけを聞いたら、違和感を感じたり、反発する人が出て来るかもしれないなと思いました。
先日、you tubeにアップされている上江洲さんの講話のコメント覧を見ていたら、この言葉を聞いた人から疑問を呈するコメントがありました。その人曰く「本当に悩み、苦しみを味わったことがないのでしょうか。それならば人の悩み、苦しみを理解できないのではないでしょうか。(誤解されない様に)筋道を考えて話した方が良いと思います」とのことでした。この意見に”いいね”をしてた人もいました。因みにこの人は、初めて上江洲さんの講話を聞いたとのことでした。それならこの様に感じても仕方がないのかもしれないと思いました。私も誰かからこの様に突然言われたら同じ様に感じるかもしれません。ああこの人は人の気持ちが分からないかもしれないな、などとです。しかし、上江洲さんのこの言葉の真意は、「自分の意識が、”我肉体にあらず、我命なり”の境地にあれば永遠の至福を味わうことができる。この境地に至れば四苦(生老病死)に苦しむことはなく、永遠の命(久遠常在不滅の実在)を自覚しているので、悩み苦しみを感じることはない」という意味で語られているのだと思います。上江洲さんはこの境地にいるから上記に書いた言葉を話しているのだと思います。あらゆる感情や理性、五感などを超越しているということです。ここを踏まえて聞かなければ、「そんなのあり得ない」とか、「何自慢げに話しているの」などと感じるかもしれません。同じ言葉を聞いてもそれぞれの意識の置き場所によって違いが表れるということです。
 私達人間は、自分が実感したり直感で受けたりしたことを言葉で説明しようとすると、その話を受け取る側の意識レベル(高い低いという意味ではありません)で解釈されるので、その解釈の仕方は、それこそ人の数ほどになるのかもしれません。だから、なかなか自分の伝えたいことがきちんと伝わらないことはあたりまえなのかもしれません。だからこそ
他人の話は丁寧に聞くことが大切なのではないでしょうか。でもそれは参考程度にしておき、盲信、狂信などせず、改めて自分の内側から答えを得るようにした方がいいと思います。直接相手の意識を読み取れるのならいいのでしょうが、私達普通の人間には簡単にはできません。なので、言葉でやり取りする際には、真意を完璧に伝えることは難しいということを頭の片隅に置いて行なった方がいいかもしれません。上記の例でも、この人は違和感を感じてコメントしましたが、もう少し真意が伝わる様に話し方の構成をしたらどうですかとも言っています。たぶん伝え方の難しさを認識している人なのだろうと感じました。
毎日の生活の中で、この様に誰かに何かを伝えたり、何かを聞いて理解しなければならないことはたくさんあると思います。その時、伝える側、聞く側が、相手に対して、もうダメと断じて離れるか、または、もう少し伝えようとするか、または理解しようとするか、分かるまで対話するのか、どれを選択するかは人それぞれでしょう。どの様な選択をするかで先の展開が全く違って来るかもしれません。そして、そのどれを選択しても、それ自体に良いも悪いもありません。ただその選択を自分がしただけです。そして、そこでどんな種を蒔くかです。愛の種なのか、争いの種なのかいろいろでしょうが、それは後々ある縁に触れて発芽するということです。それをきちんと刈り取る努力をすることが大切なのだと思います。私達人間はその繰り返しをずっとしているのです。今感じている”ご縁”というものもそれらのやりとりから生じているのかもしれません。
私もどの様にしたら真意が伝わるのだろうかということに苦労しています。今はワクチン接種についての考え方のやり取りには苦労しています。私は薬害で苦しんだことがあるので、体に入れる薬には敏感です。実際にはほとんど飲みません。恐ろしさを知っているからです。今回のワクチンについても様々な違和感を感じています。異常な接種回数やその促進についてです。実際、世界中でたくさんの死者が出ている様です。でも、やるやらないは個人の選択の自由です。それぞれの考え方があり、それは尊重します。しかし、強制や詐欺的行為がなければの話です。いずれにしても、今後いろんなことが明らかになってくるでしょう。私が感じているのは、ワクチンの副作用について、私自身の経験や今懸念されている話をしようとすると、怒鳴られたり、頭おかしいんじゃないと言われたり、何らかのレッテルを貼られてしまい、まったく話を聞こうとしない人が圧倒的に多いということです。私に対してその様な対応をする理由は、テレビで言ってないとか、専門家が言ってるのと違うというものです。なんだか他人の判断に任せきりの人が多い感じがして、少し心配になります。何でもそうだと思うのですが、あることに対して様々な角度から見て考えることはとても大事だと思うのです。今の自分の物差しと違うからと言って、なんでも反射的に拒絶してしまうと危ない気がするのです。今述べたこの見解も私の物差しなのでしょうが、やはり、生死に関わることには、もっと慎重になって欲しいと思うのです。だから、一回だけは伝える努力はします。相手によってはタイミングを見て複数回するときもあります。でも強制はしません。その人の学びを奪うかもしれませんから。もし、それでその人がどうにかなってしまっても、それはその人に必要な経験なのかもしれないと思う様にしています。辛いけどそうするしかありません。それぞれの理解力に応じて私達人間は歩んで行くのだと思います。

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