何を学ぶか
「地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです」タデウス・ゴラス
これは、”なまけ者のさとり方”にある一節です。かなり分かりにくい言葉ではないかと思います。この字面通りに読んでみると、地獄を愛するとは一体どういう意味なのか、よく分からないのではないでしょうか。人間の観念が創り出した地獄とは、とんでもない場所や状況を意味すると思います。ここを愛することができる人などいるのでしょうか。
私は、初めてこの言葉を読んだとき、何を言っているのか、意味が分かりませんでした。でも、なぜか、ずっと頭の片隅にこの言葉が残っていたのです。それで今はどうかというと、私なりの解釈に過ぎませんが、なんとなく分かる様になりました。
この地獄という言葉を、辛いと感じる場所や状況と捉えてみると、この様なことは、私達が生きている間には、誰もが何度も経験することだと思います。タデウス・ゴラスさんは、その様な時の自分の意識状態が一定以上に到達している人を前提に、この一節を話しているのだと思います。
つまり、人間には、自分がどんなに真面目に生きているつもりでも、何かしらの辛い状況に直面することは必ずあると思います。そして、その目の前の事象に対して、辛くて仕方がないという意識に満たされているのか、理不尽に感じて自暴自棄になっている状態なのか、自分に必要なことが現れているという意識なのか、自分の成長の為と、今の意識が本物なのか神が試すために、あえて与えてくれたものと捉えるのか、それらのいずれなのかによって、同じ事象が全く違うものになるのだと思います。つまり、ある一定以上の意識状態に留まることができる人は、どんな状況でも、本質の意識状態で思い、話し、行動することができるということです。この様な境地に留まれる人は、タデウス・ゴラスさん曰く、意識状態が天国に住んでいることになるのだと思います。自分が今まで生きてきて気付いたことに基づいて、共存、共栄、共生という調和的生き方を腹に落とし込んだ上で選択できる人のことを言っているのだと思います。そして、その様な人を指して”それができる人は天国に住んでいるのです”という表現をしているのだと思います。
この境地にいる人は、大元との融合、臨在感を体験した人なのかもしれません。つまり、自分の本質に気付き、大元が何であるかに気付き、その上で、それそのものを生きる選択をして、そこからブレない人のことを言っているのだと思います。
私達にも、たぶん、この言葉通りに心掛けて生きることは出来ると思います。しかし、腹に落とし込んだ状態でないと、逆に意味を理解してないので、辛くなる様な気がします。本質に至るタイミングは、一人一人それぞれだと思うので、誰かと競ったり、嫉妬したりするものではありません。だから、私達は、焦らず目の前のことを一つ一つしっかりと向き合って丁寧に対処するのが早道なのだと思います。あとは自分の努力次第で、ある一定水準(他との比較ではなくて、自分の中で)まで来たら、本質に到達するのが一気に早まる様な気がします。
私には、本質に至る方法に関して、ちょっと気になる言葉があります。このことは、世界中で多くの人が言っています。それは、「この世の知識を、本を読み漁ったり、人から聞いたりして詰め込んだりするのは、余計に本質から遠ざかることになる」という話です。このことは、私も本当にそうかもしれないと思います。なぜなら、自分も含めた、偽我の状態のときに作り出された、一部の人達だけに都合の良いものがかなり混ざっているからです。その様なことを、よく知らずに、どんどん詰め込んでしまい、それを本質と勘違いしたり、他者に優越感など感じて満足してしまったら、それこそ迷い人になってしまうかもしれません。それは気付かないうちに、分離感や差別意識を醸成することになるのかもしれません。そうして、見た目は優雅に、今生を終えることができたとしたら、どうなのでしょうか。その人の意識が、分離感や差別意識に満たされてしまっていたら、それは、不調和な想念で満たされていることになります。精神階層では禍を撒き散らすことになるのかもしれません。もしそうだとしたら、その様な人生をどう感じるでしょうか?
私達人間にとって、今生で何を学ぶのか、それは極めて大事なことではないでしょうか。
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