依存
私が最近ずっと頭にあったことの一つに、依存、という言葉があります。
何かに依存して事を成すのは安心、楽ちんかもしれません。
しかし、その状態で何かを成し遂げたとしても、真の達成感はあるのでしょうか。自分の軸からズレていても、気がつかない恐れもあります。楽ちん故の感覚の麻痺です。
人によってその捉え方の度合いはまちまちでしょう。目的さえ遂げれば、それでいい、満足という人もいるでしょう。たしかに、目的を成し遂げているので、細かいところに目を瞑れば、何となく満足感は続くかもしれません。
依存体質。これになってしまい、またそれにすら気づかないとしたらどうでしょうか。依存するのが、ものだったら自分の範疇で収められるのかもしれません。しかし、人に依存している場合は、そうはいきません。いつも他人の時間、エネルギーを奪ってしまうことになっているかもしれません。契約してのことだったら、それはいいかもしれません。お互い同意の元ですから。
そうじゃない場合は、依存体質になっていないか気をつけた方が良さそうです。
例えば、誰かに何かを相談する、というのは相談する側、される側が対等になるのが難しい面があります。さらに、依存を生み出す可能性もあります。気づき、を逸してしまい、相談した人の意見に依存して、自分で決めることが面倒になる恐れがあります。そこで、本来自分で経験した方がいい、せっかくの貴重なものを逃してしまっているかもしれません。因みに、私は何でも自分でやった方がいいと言っているのではありません。ゆっくりでもいいから、なるべく自分でとことん考えたり調べて、やれるところまでやろうと心掛けた方が結果楽しめるのではないかと思うのです。
つまり、意識を拡大する機会を逸してしまうということなのです。
点から得られる気づき、線から得られる気づき、面から得られる気づき、そして、立体から得られる気づき、というのがあるとしたら、自分で点をつけて、自分で線を引いて、自分で面を描いて、自分で立体を作るのならば、その過程で得られる気づきは貴重です。その方が次第に情報量が多くなるので、ハッと気づく機会が増えるということです。人にやってもらったものを見て何かに気づくのとでは、あきらかに質、量ともに違いますね。
この事を繰り返していく中で、意識が目覚めていき、多元的な視野と力を取り戻します。そして次の段階に進む、ということです。
その方が、楽で愉しい境地に早く近づけると思います。
要するに、何かに依存しないでことを為して進み、それに没頭できたらそれは、自分の内面と向き合い、自分の魂の本質を見い出し、それを表現している、ということなのかもしれません。明想と同じかもしれませんね。
とにかく、何かに盲目的に依存するのは危険すぎます。例えば、テレビとか、一番危険です。
依存しないことで、自分で作った妄想である限界を突破できるようになり、意識の拡大を無限に図ることができます。
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