信じる
「信じるとは深く知ることである。」
(心身の神癒)
私達は、”信じる”という言葉を日常的に、頻繁にとは言わないにしても、なんとなくいろいろなことに使っていると思います。上記の言葉は、私達人間が”信じる”ということを、
“よく分からないけどなんとなく信じる”という感じで今までずっと使って来ていることを警めています。
例えば、好感が持てるから誰彼を信じます、好きだからあなたを信じます、なんとなくしっくり来るから何々教を信じてます、人気がある様だから何党を信じてます、などなど様々なことに対してなんとなく使って来ているのではないでしょうか。この様に、ある意図があり作られた有名人、思想や哲学、教義など、よく知らないけど、”なんとなく信じているもの”はたくさんあるのではないでしょうか。中には、自分では確信を持っていると思ってることもあるでしょう。でも、その信じている対象のことをどれだけ知っているのかもう一度あらためて確認してみることは大事なことだと思います。そして、その点を意識してみたら、結果どの様に感じるか、いわゆる正見(理解)することはとても大切です。以外に何も知らなかったり、少しだけ知ってたり、ある程度知ってると感じる人もいるでしょう。しかし、その知っていると感じたことも事実かどうか簡単には分からないかもしれません。もしかしたらプロパガンダに乗せられているかもしれません。信じているものがとても危険な思想、想念かもしれません。いずれにしても、それらは自分を縛っているものであることには変わりありません。世の中のほとんどのことがその様な影、幻の様なものなのかもしれません。そんなものに過度に意識を向けて時間を浪費するのは非常に勿体ない様に感じます。なので、それがどういうもので、なぜ自分がそれを信じているのかを徹見しなければなりません。今の自分の想念を意識し、その起こり方をきちんと知らなければならないということです。そうすることでいろいろなことに対する識別力が高まると思います。本当は、一瞬一瞬自分の思いを見張るくらいのことをしなければならないのです。そうしないと、いつの間にか盲信、狂信、偶像崇拝しているかもしれません。それを信じている結果、良かれと思ってしていることが不調和を引き起こしているかもしれません。現実に今、それぞれが信じている神の名の下に激しく対立し戦い殺し合いをしています。神の名の下に殺し合うとはなんて皮肉なことでしょう。観念、概念で自分を縛り、それに気付かない結果ではないでしょうか。この様に自分が信じていることが不安や恐怖を引き起こしていたり、その不安や恐怖を自分でも感じていたら、自分の何かが間違っているのです。そんな時私達は、不安や恐怖をなんとかする為に、神よ、愛していますなどと祈ります。因みに神を愛するということは隣人を愛することなのです。(理由については先日「隣人を愛する」に書きました)そのことを知っているのであれば、目の前の人を愛しているはずです。もっと分かりやすく言うと親切にしているはずです。もし、していないのならば、そのこと(神を愛するということ)を知らないということになります。本当に知っているということは、そのものを生きているということです。神生きる、愛生きるということです。だから、労り、思いやり、生かすということが大切なのです。一人一人の思いがこの様なものであれば戦争など起きないと思います。これが本質です。単純で簡単なことだと思うかもしれません。でも、自分で創り出したいろいろな観念、概念でその本質を忘れるから不調和になるのだと思います。では、今の自分はどの様な思いで生きているでしょうか。それを見つめてみた結果自覚できたものが今の自分だということです。この本質からずれるから不安や恐怖を覚えることになるのです。つまり、他人をどうこう言って裁くのではなく自分の意識状態を一瞬一瞬警戒することが大切なのです。それが共存、共栄、共生に繋がり、調和の取れた世界になる道筋ではないでしょうか。
「人間を人間から分離するものはすべてニセモノである」(ある聖人の言葉)
信じる

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