努力し続ける大切さ
誰彼を詰めましょう、という言葉を時々耳にすることがあります。今の世の中は、あの人は詰めないと分からないとか、きつく言わないと分からないとかの論理をまことしやかに使う場がそんなに多いのでしょうか。そんな世の中なのでしょうか。普段は穏やかそうな人の口からその様な言葉を聞いた時には、少し驚き、ドキッとしました。
私も、今まで、あの人に(例えば嫁など)言ってやったなどと言う人(姑)を、何度か見てきました。それを聞くたびに非常に嫌な気持ちになりました。なぜなのでしょうか。それは、そう言う人は、偉ぶっているからです。嫁に言ってやったというのは、自分を嫁より上に置いた発言だと思います。この嫁、姑の関係だけではなく、小さな頃から、私はこの偉ぶった人を見ると、感情を抑えるのに我慢しすぎて倒れそうになったり、耐えきれず感情を爆発させてきました。この人達がするのは、強制、脅迫、全否定です。なぜそうするのか、自分の意向を、観念や概念、自分の常識で無理矢理通そうとする為、また、自分が正しいと思い込んでいる為です。だから私は、この行為に対しては、相手が誰であれ冷静にきちんと対処してきました。
私達はまったく同じ命であり、同じ素材でできています。違いは、意識の置いているところです。だからこそ、「私はこう思いますが、あなたはどう思いますか」というやりとりが大事なことで、それを心がけなくてはならないのだと思うのです。しかし、自分はこの人より上だと錯覚している人達には、相手の意見を聞くなどのやりとりがあることや、このことが非常に大切であることすら、残念ながら、全く分からないのかもしれません。ただ、私はこの人達を否定はしません。なぜならば、この人達の意識レベルで自分を表現しているに過ぎないからです。私が最近よく書いている、”自分の意識をどこに置いているか”ということだけの違いです。基本的に私達人間の本質は、全員、一元の命です。これが基本です。違いは、それぞれの自由意志に基づいて、自分の意識をどこに置いているかということです。自分を本質の命だと自覚できればいいのですが、なかなかできないから、長い間、自分で創造した肉体を自分の本質と錯覚して、その様な偽我が創り出した様々な事象に、振り回されているということです。私達は、自分の本質を自覚すれば、すべての悩みなどは無くなるのです。自分の本質を自覚するために、何度も輪廻転生しているということです。もしかしたら楽しんでいるのかもかしれません。このことは、タデウス・ゴラスさんも言ってました。私は今になって、彼が何を言っていたのかが分かりました。
初めに書いた、誰彼を詰めましょうというのは、自分を詰めましょうと言っているのと同じです。もし、詰めて、相手が屈して、謝罪したら、満足なのかもしれません。自分の中では満足感を得たとして、これで良しとするかもしれません。でも、自分がその事象で発した波動は、重くて真っ黒なものかもしれません。もしそうならば、絶対法則からしたら、その真っ黒な波動は、自分に確実に戻ります。それが戻った時のつらさを解消する為に、また他のせいにする行為を繰り返すのであれば、”何でも他に求める、故に、また形を変えて自分に跳ね返る”という事を永遠に続けることになるかもしれません。かもしれないと言ったのは、自分の本質に気付いたらその連鎖が終わるからです。本質に気付かないうちは延々と繰り返すということです。大切なのは、意思を持つこと、やめると思ったら、すぐに切り替えることです。私達は本質そのもので生きればいいのです。それは簡単そうに思えるのですが、実際には、本質に気付くのも大変だし、気付いたと思っても、もしかしたら、本質そのものを生きていないかもしれません。人の話を聞いたり、本を読んで、分かった様でいて、実は何も変わっていないというのが、私達の本当のところかもしれません。だから、自分の本質を実感するという意思を持ち、目の前の事象等に耐え忍び、本質に至るまで、勇気を持って努力し続ける事が、とても大事なことだと思うのです。そう思うからこそ、私も、限られた今生の時間を大切にして、努力を怠らず、一歩でも本質に近づきたいと思います。
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