意識


「真我を追求せず、偽我のまま生きているのなら、それは嘘をついているのと同じこと」
(上江洲義秀氏の講演会より抜粋)

 子供の頃から「嘘をついてはいけません」などと、母親や先生などから言われたことがあると思います。私も何度か言われたことがあります。そして、なるべく嘘をつかない様にしてきたつもりです。しかし、弱いからなのか、それとも、ずるいからなのか、自分を守る為だったり、都合良くする為に、少しだけ良心の呵責を覚えながらの嘘は何度かついてきたと思います。嘘をつくとそれがバレない様に嘘の上塗りをし始めます。時には後ろめたさを感じながら続けざるを得なくなったりします。それらの嘘は、バレずに上手くいったと思う場合や、バレて大変なことになる場合もあります。いずれにしても心の中は大なり小なり乱れてしまいます。人は、その様な状態になると、思いや言葉は乱れ、おかしな行為をしてしまうものです。つまり、嘘は心を乱す元になるということです。それを意識して正さないでいると、いつか必ず、何かしらの形で帳尻合わせをすることになると思います。「嘘をついたけど今生では上手く乗り切った」と思っても、どこかの生でその嘘の帳尻合わせをする時が来ると思います。また、”ホワイトライ”というのも例外ではないと思います。なぜなら、その人を助ける為と思ってついた嘘でも、実は、その人の貴重な経験を奪うことになってしまい、成長の邪魔になってしまうかもしれないからです。
 それでは、嘘をつかない様にするにはどうしたらいいのでしょうか。日々の暮らしの中で、ささいなことなら、”適当に言っとくか”
とか、”うるさいから、うんと言っておこう”
などと考えてやり過ごしたり、また、仕事に関することなどで、”できてないけど、たぶん大丈夫だからできたことにしておこう”とか、
“莫大な利益になるから綺麗な言葉で誤魔化そう”とか、”自分の身が危ないから言われた通りにやっておこう”とか、”気が咎めるけど流れに乗っておけば、みんなやっているから、悪いと思うけど、何とか誤魔化せるだろう”などの様な対応をすることがあると思います。これらの対応は自分の心の声を無視したものかもしれません。そういう私も、過去のちょっとした嘘が次第に大きくなり、約15年後に大変なことになってしまい、周りを巻き込んで多大な迷惑をかけた経験があります。その間、心の乱れをお酒で誤魔化したり、死んじゃおうかななどと考えたこともありました。しかし、他人を傷つけたり、騙したりというものではなかったので周りの助けもあり、なんとか乗り越えられました。詳細は今は省きますが、今振り返ると、私にはこの様なキツイ経験が必要だったのだと思います。今までの(前世も含めた)帳尻合わせだったのかもしれません。その様な経験をした上で思うのは、嘘をつかない様にする為には、他人に強制することなく、自分の好きなこと(やりたい事)をきちんとすること、その為に、私はこう思います、あなたはどう思いますかということをお互い丁寧にすることで、全体の調和を図ることが大切だと思います。
 私達人間の本質は愛です。愛そのものだということです。そのものであると認識し、そのものを生きるということです。それは、すべての幸せや喜びを願い、すべての悩み、苦しみ、痛みが取り除かれることを願い、すべてを慈しみ、すべてを許し生きることです。それは、他を生かして生きる、共存、共栄、共生の為に調和を図ろうとすることです。そして、これが真我です。
しかし、私達人間は、恨み、怒り、嫉妬に燃えて、他から奪って生きることをしています。これが偽我です。我欲に溺れて真我を見ずに生きているのです。”本当はこうなのに”
と思いつつ、”まあいいや”などと真我の声を封じる様に、それに膜を張ったり剥がしたりして、行きつ戻りつしながらを繰り返しているのだと思います。自らの一瞬一瞬の思いの結果が表れているのです。ならば、原因である自らの”思い”を正せばいいのではないでしょうか。要するに敵は我内にありなのです。つまり私達人間は一人一人責任持って我内なる敵を追い払い、しっかりと本質を自覚しなければならないのだと思います。他人を批判、非難するということではダメなのです。何の解決にもならないのです。自ら放つバイブレーションですべて分かってしまうのです。だから嘘は必ずバレるということです。
私は、日々の暮らしの中で、ちょっとした嘘をつくということは、自分の内なる敵との闘いに負けることだと思います。静心を保つには自分の内なる敵(魔)に負けない努力が必要なのです。




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