変性
「必要なのは、知的な反応ではなくて、愛と慈しみを表現することなのだ。〜愛と慈しみとは行動である。知性はただ反応するだけだ。」
これは、マクドナルド・ベインの本の中に出てくるある聖人の言葉です。
ところで、私達人間は、今、はたしてこの様な反応ができていると思いますか。
いきなりこんなこと言われても何を言ってるのか分からないかも知れませんね。
例えば、自分が通っている学校や会社、またはサークルなど、または、外交の場なども含めた日々の生活の中で、何か問題が起きたとします。その様な時に、当事者達にはそれぞれの様々な言い分、立場、観念、希望、プライドなどがあると思います。上記の言葉で聖人は、その様な問題等が起きた時に反応する場合の思いとして大切なのは、「相手を労り、思いやり、生かそうという気持ちであり、親切に反応することなのですよ」と言っているのだと思います。
これを聞いて、すごくシンプルで当たり前と感じられ、”そんなの当然でしょう”と思う人と、”そうは言ってもそんなに簡単にはいかないよ、子供みたいなこと言ってんじゃないよ”
と思った人もいるでしょう。
では、前者の様に思った方々は本当にその様に反応することができているでしょうか。
また、後者の様に思った方々は、そう思った理由を自分自身で徹底して追求してみたことがあるでしょうか。もし徹底して追求してみたことがあるという人はその結果どの様なことを感じたでしょうか。
私達人間の反応の仕方には、なぜそう反応したのかという何かしらの理由があります。その理由が我欲からなのか、それとも全体愛に基づいたものなのかなどの理由があると思います。
因みに、私は、それぞれがどの様に思い感じ言動行動しても、それらが良い悪いと裁くつもりはありません。それぞれがそれぞれの反応の仕方により次の展開がそれなりになるだけだからです。それがそれぞれの学びになると思っているからです。私達人間はそれぞれの道を歩んでいるのであり、誰彼かまわず下手に関与することによってその人の学びを邪魔する様なことになってはならないと感じています。また、自分から余計なことにわざわざ関わって貴重な自己改善の時間を失うことにならないようにすることも大切なことだと思います。いくら言っても理解しようとしない人がいます。その様な人には必要以上に関わらず、その人の成長を願うことが大切な様な気がします。それを聖人達は狂犬にはあえて近づくなという言い方をしています。
要するに、この聖人の言葉は、”平和で幸せな生き方を選びたいのなら、人と関係する時の心持ちはこの様にすれば良いのですよ”と言っているのだと思います。この様に親切な思いとはとても大切なことなのです。しかし、振り返ってみると、私達人間は、目の前の出来事に対してすぐ感情的になり、我を忘れて”親切”という思いはどこかへ追いやってしまい、我欲等を通す為に、思い込みや、観念、概念をこねくり回して対応して来てしまったのではないでしょうか。
実際に自分が今いる場所で、ある問題が起きた時、多くの人は周りの評価を気にするなどの雑念が入り”親切に”というよりも”知的に”
という反応をして来たのではないでしょうか。私自身どうかというと、後者の様な思いで生きて来たことが多かったと感じています。親切な態度も時には周りの評価を気にしてやったこともあり、なるべく知的に思われる様に反応して来た様に思います。つまりその様な意識レベル(上、下という意味ではなく意識の置き場所という様な意味)だったということです。なぜそう反応したのかと言うと、
“私がそれをやったのだ”という自己顕示的な我欲があったからだと思います。これではいつまでたっても”変性”は起きないと思います。
この”変性”とは何かというと、意識がどう変わるかについて言っています。自分の意識が個人意識(自我意識)から神性意識へ変性することを言っています。では、なぜ私達の意識がなかなか変性しないかというと、経験、体験に基づいた記憶から作り出した自身の観念などで反応して一瞬一瞬思い、話し、行動しているからです。それらは我欲に塗れているのではないでしょうか。そうであるならば、それは偽我が前面に出ている状態であり、真我(神我)が沈黙している状態なのです。つまり、聖人達が言う「我、自ら無なり」の境地が理解できていないということなのだと思います。意識が”今の今愛であること”という状態にないのです。どこかズレているのです。
”私”を動かしているエネルギーはどこからきているのでしょうか。一瞬一瞬思ったり、話したり、動いたりする為に必要なエネルギーは何であり、それはどこから来ているのでしょうか。私は、一人一人がそれを追求することが何よりも大切なことだと思います。なぜなら、そうすることが本当の幸せに至る道だと感じるからなのです。そして、そのやり方とは愛と慈しみを表現することなのです。
「愛は理解されなくても親切にし、咎めることなく不正に堪え忍ぶ」(マクドナルド・ベイン著書中のある聖人の言葉)
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