大事なのは思い
私達が毎日の生活をしていく上で大きな存在になっているものにコンビニがあります。私も、ほぼ毎日の様に、ちょっとした買い物に使っています。先日、普段は使わないコンビニに入ったときのことです。そのお店の店員さんのレジでの応対の仕方に少し違和感を感じたことがありました。私は、細かいことには、あまり気にする方ではありません。しかし、バカ丁寧にしてくれとは言わないにしても、なかなか驚く様な応対をする人だったのです。その店員さんは、棚卸をしていたのですが、私がレジ待ちに並んだら、こちらはゆっくりで構わなかったのですが、その店員さんは、私が並んだことに気がついて、なんとなくイライラした感じで、おもむろに立ち上がり、大きな声で「どうぞ」と言いながらそそくさとレジに来ました。こちらがレジにゆっくり向かうと、また、さらに大きな声で「どうぞ」とイライラしながら畳み掛ける様に言ってきました。早くしてよと言わんばかりでした。私は少し驚いて、その店員さんの目を見ながら「よろしく」と言ったのですが、最初から最後までまったく目を合わせないで、さっさとレジを済ますと、次に並んだ人に、また大きな声で「どうぞ」と言って、さっさと機械的に終わらせようとしているのです。性格なのか、イライラしているのか、やりたくない仕事を仕方なくやっているのか分かりませんが、もし、いつもこの様な感じで仕事をしているならば、あまり望ましい結果を招かない様に感じました。この様な姿勢の応対はいろいろなところで、たまにお目に掛かります。慣れているので手際は素晴らしいのですが、仕事に対して「ただこなせばいいんだろ」という感じがありありなのです。私がこの様に感じるということは、私の中に同じ波動があるからです。はっきり言って嫌な波動です。すぐに、私も気をつけなくちゃと思いました。この様な波動を発するには、何かしらの原因があります。それは何であるかは人によって様々でしょう。ただ言えることは、やっつけ仕事の場合にこの様な姿勢になりがちな様な気がします。私の経験上の話です。私もそれを見透かされて、散々叱られながら仕事をしてきましたから、よく分かります。慣れてくると、その様な姿勢になることがあります。何か見下しているのかもしれません。
仕事は、どうせやるなら、最上の事を目指したいものです。しかし、そうするためには、その動機がしっかりと認識されていないと、丁寧にできないのかもしれません。その仕事をなぜするのかなどの動機です。その前に、なぜ生きるのかという動機を把握する方がより大切なことだと思います。それを把握できてれば、何が目の前にきても、しっかりと向き合えるのではないでしょうか。やりたくないとしか思えない場合や、やりたくないけどお金のためだから仕方がないと思い渋々やる場合、また一方で、自分の成長のためにあるのだと認識できて、どんなことにも感謝しながらする場合、などいろいろあるでしょう。しかし、後者の場合は、この境地に意識を置いて行動している人は、本当に勇気があると思います。
世の中はIT技術が進化して、様々な分野で、人が関わらなくても対応できることが増えてきています。それも一因かと思うのですが、対面での人との対話の機会が少なくなり、人情の機微や、対話の仕方などが分からなくなってきているのかもしれません。それでなくても私達人間は、ある意味、この世という仮想世界で暮らしているのに、その仮想世界の中に、さらに仮想世界を作る様なことをしているのかもしれません。そんなことを過剰にやり続けていたら、ますます私達人間の本質どうしの応対ができなくなり、自分が何ものなのか、まったく分からなくなるかもしれません。私は、その様な傾向にますます拍車がかかってきた様に感じます。ある意味何かから逃げているのかもしれませんが、この様な状態が、ある程度過剰に進んでいけば、いつかは、神が、「はい、やり直し」ということで命の光を消すかもしれません。そうなったら、一旦、すべて消えます。やり直しです。
私は、私達人間が何かを見失っているのだと感じます。それは、自分の本質は何であるのかということです。それを見失っているかどうかを窺い知ることができるのは、その人の言葉や行為です。それらの言葉や行為の元になっているのは、その人の思いです。要するに、どの様な思いを持って日々生きているのか、心を占めている思いが何なのか、これが非常に大事なことだと思うのです。思いは波動です。つまり、周りにそれ相応の影響を与えるということです。特に、不調和な思いが顕現するスピードがだんだん速くなっている様に感じます。今、思いを正さないと、思わぬことに巻き込まれるかもしれません。それを飲み込んで影響を軽減できるのは、共存、共栄、共生という調和的波動です。そうであるからこそ、私は調和的波動を放つものになりたいと、強く思うのです。
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