安らぎが定着する時とは

意識

安らぎが定着する時とは
それは、上江洲義秀さん曰く”自らが自らを修正した時”だそうです。なるほどそうだなと思いました。
 私達人間は、日々の生活の中で、ふと安らぎを求めることがあると思います。あるいは、意識的、無意識的にかかわらず、常に求め続けているのかもしれません。その為にあれやこれやバタバタしている様にも思えます。そして、何かをした結果、安らぎを得たと思ったら、もう何分か後には不安になったりします。では、なぜそんなに気持ちが安定しないのでしょうか。
私達は安らぎを様々なものに探し求めていると思います。例えば、お酒、タバコ、恋愛、スポーツ、山、海、お金、宝石、車やバイクや自転車、気の合う友達、家族、犬や猫、音楽鑑賞、絵画、例をあげたらキリがありません。それらのことをする動機には、もしかしたら、他との比較感を消したいという思いや競う雰囲気が無い場を求めているのではないでしょうか。また逆に他に対して優越感を求める思いがある場合もあるかもしれません。
何を言いたいかと言うと、いつも競争ばかりしている人は前者の思いを求めて、また後者は、自分は誰彼より上、または平均より上と感じることで安心するのかもしれないということを言いたいのです。しかし、後者は比較優位感を得られなければ不安になり、ついには、どうして私ばかりこうなんだろうなどという気持ちを抱いてしまうかもしれません。これでは絶えず気持ちが揺れ動き続けてしまいます。
では、すべてに上も下もないとしたらどうでしょうか。これが真理だとしたらどうでしょうか。実在は完全意識しかなくてこれがすべてを司っているとしたら。つまり全一体であるとしたら。
私はこれこそが真理だと思っています。全一体、愛一元ということです。どう考えてもそれしか辻褄が合わないと感じています。そして、私はそう思う様になってから、心の安定が得やすくなった様な気がします。実感というやつです。この実際に感じること、または直接感じることが一番大切だと思います。様々な観念や概念に縛られるから窮屈になり気持ちが揺れてばかりいるのです。だから、本を読み過ぎると混乱するとか、この世の知識に殺されるなどと言う人もいるのだと思います。
 私達人間は自由です。本質において自由です。やりたい放題するという意味ではありません。誰かが考えた観念などに支配されて生きる存在などではありません。それをもっときちんと理解するには、一体私達人間とは何なのかということをきちんと実感する努力が大切になると思います。そしてそれはそんな簡単には実感できないものだと思います。自分自身を完璧に磨き上げなければならないのです。
そのやり方は、今自らが置かれている家庭や職場の中で、”労り、思いやり、他を生かして生きること”ができているかを意識して普通に暮らすことです。何も特別なことをしなくてもいいのです。なぜなら、今目の前にある現実は今までの自らの一瞬一瞬の選択の結果が現れているからであり、この現実にどの様に対処するかで次が決まるからです。ある目の前の事象に対して怒りを放てば、いずれその怒りの波動が自分に戻るということです。また、労りや思いやりなど調和の波動を放てばいずれそれが自分に戻ります。ある波動を放ち続けるとやがてその波動に満たされるのではないでしょうか。ならば、すべてが平和に満たされる波動を放ちたいものです。
でも、一人一人がそうならなければ本当の平和にはなりません。一人一人がです。誰かがではなくて自分が意識してそうなる努力が必要です。故に、そうなるにはとても長い年月がかかるかもしれません。私達人間には自由意志が与えられており、選択の自由もあるからです。しかも他人を変えることはできず、強制もできず、もしそうして変わったと見えても外側だけかもしれません。いわゆる面従腹背というやつです。
繰り返しになりますが、大切なのは、一人一人が自己改善の努力に意識を向けることだと思います。なぜなら、自らを正せるのは己自身だけだからです。他の思いを変えることはできず、できるのはアドバイスくらいです。つまり、”自らの思いを正し、他人を不快にさせる言葉を使わず、労り思いやりに満ちた表現をすること”を一人一人が心がける”意思”を持ち、感情に負けない”忍耐力”を持ち、前に進む”勇気”を失わず、己磨きの”努力”を続けられるかどうかが大切なのだと思います。その過程で”修正できたと認識できた時安らぎが定着する”のだと思います。それをやり続けることで本当の自分が何者なのかが次第にはっきり見えてくるのではないでしょうか。
これは、本質に近づく方法の一つだと思います。やがて、すべてはすでに愛の中にあるということに気付きます。そうして真の安らぎを得るのだと思います。

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