安らぎはどこに

意識
安らぎはどこに

「今生を優雅に優雅に終えたとしても、本質を自覚できなければ、迷いの人生を終えただけである」

この言葉は、何を伝えているかと言うと、今生、例えば大富豪になったり、最高権力者になったり、誰もが知ってる有名人になったりして、誰もが羨む一生を終えても、自分の本質を知らずして今生を終えてしまったら、迷いの意識のまま肉体を脱いだに過ぎないということを言っています。ある聖人曰く、王様だろうが宗教指導者だろうが、真の自分が何者かを自覚できなければ”失敗”の人生ということです。要するに、今生も成就できなかったということです。

 真の安らぎとは何でしょうか。そして、それはどこにあるのでしょうか。今の自分の意識はどの様な状態でしょうか。真に安らいでいるでしょうか。
安らぎとは、とかくこの世では長く続かないものです。安らいでいると思ったら、いつの間にか不安で仕方がない状態になっていたりします。では、安らぎとはどの様な状態を言うのでしょうか。
それは、例えば自分の思う通りに物事が進んでいたり、人間関係が上手くいっていたり、美しい景色を見たり、美しい音楽を聴いている時に感じたり、または、家族に恵まれ、しかも健康で、さらに、家を持ち、車もあり、仕事も収入もそこそこあり、友人、知人も多く、打ち込める趣味もあるという、そんな状態と考える人が多いのではないでしょうか。そんな状態で人生を終えることができたらいいなと感じ、漠然とそこに安らぎがあり、生きる意味があると思う人はたくさんいるのではないでしょうか。その様な人達の中には”自分はなんて幸せなんだろう”と感じている人も多いかもしれません。私は、それはそれで素晴らしいことだと思います。
では、家族の誰かが病気になったら、また、地震などの災害で家を失ったら、仕事をクビになったら、収入が激減したら、友人知人とトラブルになったらどうでしょうか。所謂、生老病死の恐怖に意識が囚われている、そんな時にはとても安らいでいられる状態ではないのではないでしょうか。人生山あり谷ありですから、それもあたりまえなのかもしれません。その様な意識状態を極端に言うと、有頂天からどん底へ、また意に沿う形に戻ったら、どん底から有頂天へなどと急上昇、急降下を繰り返す全く安定の無い状態と言えるのかもしれません。つまり、自分に都合良くいけば幸せ、都合良くいかなければ不幸せということでしょうか。ほとんどの人の意識状態は、物心ついてから死ぬまで上げ下げの繰り返しに終始しているのではないでしょうか。はたしてそれが真の安らぎと言えるのでしょうか。

「どんな時でも私は至福を感じています。いつも意識は至福状態にあります」

この様に言い切る人達がいます。ブレないと言い切ります。その様な状態を、どんな時でも安らいでいる、真の安らぎ状態と言うのかもしれません。そんなことが本当に可能なのでしょうか。その人達は意識を大元に置き続けていると言います。本質のみを見つめていると言います。自分の元々の意識、自分が本当にいるところ、つまり本質のみを観ると言います。そこは”完全”と言い切ります。それが真理に到達した状態と言います。そしてそれが、本来の自分であると言います。それを自覚し、その意識状態で生きることが真の安らぎと言い切ります。ならば、私達もそんな状態になりたいものです。
では、そうなるにはどうすればなれるのでしょうか。この場合の”なる”とは何か別のものになるのではなく、自分の本質を自覚するという様な意味合いです。それには心を綺麗にしなくてはなりません。実在には無いニセモノを見極めることです。実在でないものを認識することです。その様な真理に到達したと言う方々は、実在には愛と慈しみしかないと言います。ならばそれ以外はニセモノです。例えば、怒り、恨み、嫉妬、有頂天、落ち込みなどはニセモノです。それらは実在には無いということです。
本質は一元、つまり全一体です。器、役割、意識の置き場所が違うだけのわたししかいないということです。だから時間、空間、壁、距離など無いのです。過去、未来は無く、今だけしかありません。すべては変化していますから、本質とはこういうものですと説明することはできません。今あったと思ったものは次の瞬間には全く同じものではもう無いからです。だから、本質を人間などが説明出来るわけないのです。故に今話していることもある意味観念に過ぎません。あえて実在を言うならば、”造られざるもの”ということになるのだと思います。それ以外は”造られしもの”ということです。つまり、私達が真理に向かって到達するのではなく、真理から見て私達が使える状態になったら真理が来るということです。真理が私達の魂、心を使い神我を顕現するということです。
だから、魂、心の中からニセモノを完璧に消してしまわなくてはならないのです。”我自ら無なり。御技をなすのは父なる神のみ”ということです。
心を綺麗にするやり方が”八正道”であり”身口意を正す”ということであり、日々の生活の中で縁に触れて抉り出される怒りや嫉妬などの”思い癖や悪習”などのニセモノを自覚して修正することです。この修正し続ける努力を重ねることがまず先にやることであり、そのあとで明想に入るということです。そうでないと、意識がどこと繋がるか分かりません。怒りながら明想したらその様な怒りの波動と繋がりかねません。だから日々の生活をどの様な意識状態で過ごしているか自覚することがとても大切なのです。一瞬一瞬の自分の意識状態を見張るということです。その上で明想により本質を実感しに行くということなのです。この先に本当の安らぎ、至福があるということです。つまり、旅をしたり、難行、苦行、滝行したり、本を読んだり、宗教団体に入ったり、哲学的サークルに入ったりなどと外を探し回っても何も見つけられないということです。あらゆる意識状態が創り出した”結果世界”に真理は無いということです。これが”外を見るな内を観よ”ということなのです。
私達人間は、真の自分を自覚し、今いる場所で、または、行く場所で、本質を自覚した意識状態で生きるということが肉体を纏って生きる今生の最大の目的なのです。

冒頭の言葉はある聖人の言葉です。もう一度繰り返します。

「今生を優雅に優雅に終えたとしても、本質を自覚できなければ、迷いの人生を終えただけである」

つまり、”造られしもの”をいくら貯め込んでも肉体を脱いだ時に持って行けるものは一つもないということであり、そうではなくて、   
“造られざるもの”を実感することが今生の最大目的だということなのです。それを実感することが真の安らぎであり、至福に至るということなのです。

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