完成させるために(悟りの道)
「ありてあるものから学ぶ謙虚な姿勢と、それを続ける努力」
この言葉は、上江洲義秀さんが講話で度々話しているものです。これが何を意味しているかと言うと、私達人間が悟る(本質根源の世界に至る)為の方法を意味しています。こんなことで悟れるのかと思いましたでしょうか。
ありてあるものとは、字の如く、すべてのことを言っています。それは、人間、動物、植物、鉱物、微生物、人工物、地球、宇宙など意識に入るものすべてのことです。つまり無限だということです。
人間を例に挙げます。自分の周りにいる人を改めて意識してみると、実に様々な個性を持った人達がいます。その人達を思い浮かべてみてください。そうした時に、この人達から何か学べることがあると感じるでしょうか。この人は優秀だから、社会的地位がある人だから、教授だからなどのいわゆる地位、名誉がある場合や、または、あの人のことを好きだからなどの感情面から好ましく思っている場合などには学ぶことがあるかもしれないと判断するのではないでしょうか。それとは逆に、地位、名誉、肩書きが無い人や、感情面で嫌いと思っている人からは学ぶことが無いと判断することが多いのではないでしょうか。これらは、自分より上に見てるか、下に見てるかという物差しかもしれません。偏差値で判断することなどがその例かもしれません。つまり、自分の物差しで測ることばかりしていると、限定された狭い範囲に止まりかねず、結果的に自縛することになるかもしれないということです。
元々同じ命に生かされて、同じものから造られている肉体を持つ私達人間は、その意味からしても平等です。違いは、一人一人の意識の置き場所と役割に過ぎません。だから、この人は優秀だからとか、あの人は何の学歴も無いからなどとやっていると自縛することになり、いつまでたっても分離意識を消去できず、身動きが取れず、行き止まりで堂々巡りをすることになるかもしれません。ならば、ひとまず自分の物差しを置いて、ありとあらゆるものから学ぶ謙虚な姿勢を持ってみたらどうでしょうか。すべてに対してです。もし大嫌いな人がいたら思い浮かべてみてください。その人からもです。どうでしょうか。できるでしょうか。でも、ありてあるものから学ぶ謙虚な姿勢を意識し始めれば、次第に何かが変わると思います。これは、自分の意識を少し変えるだけでできることです。でもこれがなかなかできないのかもしれません。だから、その次にくる言葉である、努力が非常に大事になるのだと思います。
悟りの境地に至ること、これを完成させるためには、そこに行くという強い意思を持ち、忍耐力を持って、日々の生活で現れる目の前の事象を、自分に必要なことと認識して取り組み、前に進む勇気を持ち、これらのことを、諦めずに努力し続けることが大切だと思います。そして、ある日ある時、悟りの境地とはこういうことかと分かる時が必ず来ると思います。分かったら、そのものを生きればいいのだと思います。
そうは言っても、日々の暮らしの中では、思い癖が出て、嫌悪感や怒りや嫉妬が表れると思います。でも、その時がチャンスです。心に潜んでいた種が発芽してくれたのだから、それを受け止めて、その原因を正しく解釈して、いらないと判断したら消去したらいいのです。それを続ければ、いつか必ず、心の中の汚れが無くなり、ピカピカに磨き上げられると思います。この人嫌い、あの人ばかりなぜ、なぜ私ばかり、などと感じたらチャンスです。しっかり修正する時が来た、と捉えて前に進みましょう。また、明想すると、雑念が湧き出て来るので、その時に修正してしまうのも一つのやり方かもしれません。
悟りへ至る道は、長く細い道なのだと思います。いずれにしても、すべてに感謝です。
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