心の大掃除
本当の意味でスッキリしたいと思いませんか。
目覚めた人達は、「私達人間が本当の我に目覚めるためには、心の大掃除をしなければならない」と言っています。悟るためには、まずは心の大掃除から始めなさいと言っているのです。難行、苦行など、何か特別なことをしなければならないなどとはこの方達は言っていません。心を綺麗にしないと波動が合わず、本質が顕現するためにその心を使うことができないのです。心に一点でも汚れがあれば波動が合わず使えないのです。心を綺麗にしないと、いつまで経っても本質に選ばれないのです。さらに、本質とのズレがあるために悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、迷いなどが本当の意味で取り除かれないのです。スッキリしませんね。そんなの私は嫌です。嫌だから心の大掃除をしているのです。
私達は、毎日の生活の中で実に様々なことに向き合わなければなりません。それは家にいるときも外に出かける時もある意味同じです。家にいる時には、家族がいる人は親、兄弟姉妹などとのやりとり、外に出かける時には、もっと多くの人達とのやり取りに向き合わなければなりません。その時、私達の内側で起きていることの一つに、自分の心の中で交錯する様々な思いというものがあります。
例えば、家の中では、親兄弟姉妹に対して、
“朝から感じ悪いな”などと感じ思ったり、外ではすれ違う人に対して”なんだこいつ”と感じ思ったり、仕事などで向き合う人に対しても様々な思いを持ったりします。それらの思いの多くは、自分が勝手に決めつけた思いであり、相手の真意とはかけ離れていることがしばしばあります。つまり、自分の勝手な思い込みというものです。それらの思い癖で自分を縛っている状態にあるのです。例えば、家族や知人など、相手の長所はここ、短所はあそこなどと固定して見ていたり、また、人を見る時の思いが、人相や容姿の優劣だったり、性的なものだったり、出自や学歴や肩書きだったり、国籍や人種だったりなどと実に様々な縛りを心に溜め込んでいるのです。上記の例以外にも自分を縛っている思い込み、思い癖はたくさんあると思います。
私達人間は、ある事象に同時に向き合った時に、一人一人違った反応をします。同じ事でも、ある人は怒りに満ちたり、また別の人は何もなかった様に冷静だったりします。なぜならば、今言った様に、一人一人心の中にある思い込みや思い癖が様々だからです。自縛の程度の違いと言えるかもしれません。さらにもっと言うと、本質に対する理解度の違いとも言えると思います。つまり、分離感に満ちているか、全一体の境地かの違いです。
「あなたたちは気づいていないが、わたしからの、そしてお互い同志の、更にまた神からの分離感がこれまでのあなたたちの大きな敵なのである。」(心身の神癒9.49)
それでは、自分の心はどの様な思いで満たされているでしょうか。もし分からなければ、あらためてその一瞬の自分の思いを意識してみるといいかもしれません。そうしていくうちに、自分の思い癖に気づいていくと思います。しかし、なかなか一瞬一瞬自分の思いを意識するのは難しいかもしれません。面倒くさかったり、やる意味が分からなかったりする人もいるでしょう。だから、やってみようという気になった時に意識する様にしてみたらいいと思います。
本当は一瞬一瞬自分の意識状態を見張らないと心の大掃除はできません。そうしないとニセモノに意識を置いているかもしれないことに気づかず、ニセモノが何であるかすら分からず、ただ漫然と時を過ごしてしまい、今生も自己改善できずに終わってしまうかもしれません。そうしてまた、迷った心のままの状態が続いてしまいます。その様に、今生何も気付かないまま終わったらもったいないと思いませんか。因みに、ニセモノとは人間と人間とを引き離すすべてのもののことです。先程言った分離感です。反発する人もいるでしょうが、あえて例を挙げると、国、組織、慣習、特別とされるものなどがそうです。もっと具体的に言いたいのですが、受け入れることが難しい人もいると思うので今はやめておきます。因みに、私はそれらが悪いとか裁いたり非難するつもりはありません。ただそれらは分離感を助長し、また実在ではないということを意識できたら、もっと先に進めると思うと言いたいのです。
私達は、自分に都合の悪いことがあると、「なぜこんなことばかり起こるんだろう」と、しばしば感じながら生きています。では、それらの事象は偶然起きたことなのでしょうか。真の我に目覚めた人達は偶然など決して無いと言い切ります。
「各人は自分の未来を、現在における想念と行為とによって形成する。」(心身の神癒)
この様に言っています。つまり、自分の思いは凄い力を持っているということです。私達人間は、既に自分の思い通りに生きているということです。ということは、自分の目の前の事象は自分の思い、言葉、行為の結果だということになります。ならば、平安に過ごす為には己の心の中にあるものを見つめ、自己改善が大切になるのではないでしょうか。
では、「なぜ自分にはこんなことばかり起こるのだろう」と感じるのでしょうか。それは、自分の外側の事象ばかり見ているからです。外側の事象とは、本質からズレた思いの結果であり、その”結果世界”に、自分のほとんどの意識を置いているからです。だから、自分の心の状態などお構いなしに、誰彼のせいにしたりするのです。その結果の原因である一人一人自分の思いが何であるのか、その理由や動機などを明らかにする努力をしていないのです。一人一人努力すれば分かるかもしれないのに、あらゆる誘惑に惑わされ努力しなかったばかりに何も分からぬまま荒れた心が続いてしまうなんて、本当に苦しいと思います。だから、私達人間はずっと戦い殺し合いを繰り返しているのです。因みに、誰彼を正すことはできません。一人一人が自分で己の心を見つめ浄化するしかないのです。今生、私達人間の生きる目的の一つに、”一人一人が責任持って己を正す”というものがあります。繰り返しますが、一人一人が、己の、思い、言葉、行為を正すのです。だから、他人のことをとやかく言ってる暇などありません。
自分の悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、迷いなどから脱するには、まず、心の大掃除をすることです。それが極まれば、時間なき静謐を実感し、やがて本質との融合に至るのです。心の大掃除とは、一瞬一瞬自分の意識を見張り、沸き起こる想念を見つめ、その起こり方と原因を知ることです。その想念を悪いことなどと裁いて、封印しようとしたり、よく分からぬまま、それとは逆のことをしようとすると、恐怖や不安や葛藤で心が満たされてしまいます。だから、その想念の起こり方と原因をよく知らなければならないということなのです。
ある聖人はこの様に言っています。
「決して見掛けに落胆してはならない。常に善なるものを見ることである。すべては終(つい)には善なるものに到達するのである。〔神の〕久遠の計画は果たされなければならぬことを知るがよい、なぜならそれが神の御意志だからである。その背後に存する栄光と目的とはすべての人々に対する愛と平和と調和と善意とである。」
目的はすべてに対する愛と平和と調和と善意ということです。
私達人間が、真に平安や平和を得る為には、誰彼がどうのこうのと責めたり裁くのではなく、一人一人が自己改善することです。
この世のすべては影、幻です。故に一物一点執着に値するものはありません。お金を使い切れないほど貯め込んだり、権力を掴もうとしたり、土地を買い漁ったりして真の平安が掴めるのでしょうか。それらは肉体を脱いであの世に持っていけるものではありません。それらを含めたすべての道具は、兄弟姉妹などすべての喜び、幸せの為に大切に使えばいいのではないでしょうか。
善なるものとは本質です。本質のみが実在であり、ホンモノなのです。本当の意味でスッキリするためには、ニセモノに惑わされてしまうのではなく、何をさておいても真理の追求が大切なことなのだと思います。
「もはや遙かなる神なるものを説く者達に聴くことをやめよ、吾が裡(うち)なるみ霊に耳を傾けよ、そこにこそ真理は宿る。」
(心身の神癒9 .43)
心の大掃除
意識
コメント