心配
私達は日々の生活の中で、家族や友人など、誰かのことを心配することがあります。あまりしない人もいるでしょうが、それでもたまには心配することはあると思います。
心配とは心を配るという様に読めますね。心配りは大切なことだと思います。
しかし、それをしすぎると、場合によっては相手に負担をかけることになる場合もあるのではないでしょうか。つまり、心配するときの種類、言いかえると、その時の自分が放っている波動が軽いのか、重いのか、どういうものなのか、加えて、その頻度はどうなのかによって、相手への伝わり方が非常に変わってくるということです。自分の思い通りになる様に、というのが強ければ多少なりとも強制の念が相手に伝わるでしょうし、その頻度が増せば増すほど、相手は負担を感じ始めて、逆効果になるかもしれません。相手を縛ることになるのです。人間は、自分のことは自分で毎瞬毎瞬決めているし、それが周りから見て、違うのではないか、間違っているのではないかと感じても、その人に必要がある選択をしている(魂の選択に間違いはない)、ということがしっかり理解できていれば、相手への心配の質、種類、頻度が適切なものになり、いわゆる適切なアドバイスになるのではないでしょうか。どうしたらいいのか迷ったら、自由意志の尊重と選択の自由が一人一人の人間にとって非常に大切である事を再認識するのが良いのではないでしょうか。そうすれば,あまり過度に干渉的なものにはならない様な気がします。
以前書きましたが、救い主は自分なのです。一人一人がそうなのです。こうやればいいのにと思ってやり過ぎると相手に負担をかけることになるのですね。
全員誰でもお役目があります。それを、基本的に自分で決めてきてます。それを忘れているのですが、思い出して、確信を持って生きていけたら素晴らしいことだと思います。
しかし、そうは言ってもなかなか理屈通りには行かないものです。だから、悩み多い日々が続くこともあるのが現実だと思います。それも必要なのですね。どうしたら調和が取れるのか、いろいろ試行錯誤するのもいいのかもしれません。そして、また分からなくなったら、今言ったように、”今自分に起きていることは、自分に必要なことが起きている、それは他の人も同じである、それは、何かに気づくため”と思い出すことによって、袋小路から出られるのではないでしょうか。
つまり、一つ一つ気づいていかなくては先に進まないということなのだと思います。
“あ、そうか”、と何かに気づいた時は気持ちが晴れ晴れして、軽くなりますね。これを繰り返すと波動が軽くなっていくのだと思います。とても大切なことだと思います。一番大切なことかもしれません。なぜならば、全体に好影響を与えますから。
慌てず、淡々と自分のペースでやればいいと思います。
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