思いは自らを縛る

意識

思いは自らを縛る
「思いは自らを縛る」とは、一体どういうことでしょうか。最近この意味に気付いて、私は長年抱えていた二つの執着を捨てました。
 私達人間は、日々の生活の中で、いろいろな事象を目の前にして、一瞬一瞬様々な思いを抱きます。楽、辛い、楽しい、つまらない、嬉しい、悲しい、好き、嫌い、感謝、恨み、喜び、悲しみ、許し、憎しみ、安心、不安、恐れ、心配、解放、慈しみ、殺す、生かす、など本当にたくさんの思いを持ちます。その中で、自分が、どの様な思いを持ち、語り、行動するかで、全体に与える影響が違ってきます。また、自分がどの思いを選択するかを意識できれば、感情に支配されにくくなるのです。結果というのは、自分がその思いを選択した故にあるのです。その結果が嫌ならば、思いを変えてみるのも一つのやり方です。つまり、自分が思ったことというのは、ある意味、自分自身を”その思いの波動に基づいた言葉を放ったり、行為をする様に縛る”という側面を持つのです。
だから、自分の思いというのは、きちんと意識した方がいいのです。たとえば、恐れの思い、恨みの思いなどはネガティブな波動を放ちます。また、慈しみの思い、すべてを生かす思いは、私達人間本来の愛の波動を放つということです。その時の感情に任せて思いたい放題するか、一呼吸置いて、きちんと意識して何を思うかで放つ波動が変わり、全体に与える影響も大きく違ってきます。その自分の選択により放った波動は巡り巡って、やがて自分に戻ります。現在の地球の状況は、この法則の元に具現化しています。それがどんな状況でも、その法則に基づいているという意味で完璧だということです。良い悪いではなく、その思いが持つ波動に基づいて、命が瞬時に働き始めるということです。そして、すべてはこの一命に生かされています。人が自由意思で何らかの思いを持つと、それが具現化するのです。その思いの結果が嫌なら、思いを変えればいいのです。例えば、恨みに思えば、それなりの状況に自分を縛ります。そのプロセスに気付かず、一つの思いに執着すると、自分をキツく縛ることになるのです。だから、自分で、すべての執着を超越すれば身も心も軽くなれるということです。気が向いたら、一度自分を振り返ってみたらいいと思います。それで、何かに執着を感じたら、それを手放せばいいのです。因みに、私は、本とお酒に執着を感じたので、本は十二冊を残して、あとはすべて処分しました。お酒も毎日呑んでいたのをやめました。会食などの時に、場の雰囲気で嗜む程度にしました。そうしたらどうでしょう、なんとも言えない解放感がありました。
 人は、自分に都合の悪いことがあると、他の誰かや、何かのせいにしがちです。自分に都合の良いことがあると、誰かや何かに(とりあえず)感謝したりします。例えば、神様に願いごとをして叶えば、神様に感謝し、叶わなければ、神などいるはずもないなどと思ったりします。それでも、また、何かあると、神頼みしたりします。私も含めて人間とは勝手なものです。またそれだけ自分軸をしっかり持つ人が少ないのかもしれません。もうそろそろ私達人間は、自分の思いのパワーを認識しなけれはならないと感じます。
 私達は、”私達人間が自由意思で思ったことは、やがて具現化する”という法則を理解できるなら、すべては自己責任であるということが分かるのではないでしょうか。これを理解できないから、人は、自分の都合の悪いことがあると、他人のせいにして恨みや嫉妬や怒りの思いを持ってしまい、それをいつまでも思い続けることで、さらに状況を悪くして、執着にまで育て上げて、どんどん自らをきつく縛り上げてしまうのではないでしょうか。
 私達人間の思いとは、この様にとんでもない力を持っているのです。それを理解したなら、責任を持って、自らが変わる努力をしなければならないのではないでしょうか。自分の都合の良い様に他人を変えようとしてもできません。そうしようとするから争いになるのだと思います。それぞれが自由意思を持つが故に、お互いにそれを尊重しなければならないのです。要するに、自分が不自由に感じるのは、自らの思いが招いているのだということです。だから、本来の”私”に戻り、その”私”を生きればいいのです。その私とは、すべてを無限に生かす愛そのものです。

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