恐れとは
恐れの感情は、どうして起こるのでしょうか。また、何に対して起きるのでしょうか。それは、肉体を失うとか、傷つくかもしれないと思うこと、土地やお金などの財産を失うかもしれないと思うこと、地位、名誉、評判を落とすかもしれないと思うこと、ライバルには絶対勝てないかもしれないと思うこと、人との別れ、また、いわゆる死別など、例を挙げたらキリがありません。では、人間は、なぜこんなにも様々なことに恐れを抱くのでしょうか。結論から言うと、肉体を自分の本質だと思っているからです。
「人間の生とは、この世に肉体を持ち、生まれてから死ぬまでのことである」と認識してるのであれば、何かを喪失することは非常に恐ろしいことに感じるかもしれません。住む家が無くなったら、お金が無くなったら、仕事を失ったら、食べ物が無くなったら、水が無くなったら、そして究極、死んだら、などなど、いろいろなことに対して恐れの感情を抱くのは、その様な認識を持っているのならば、ある程度は理解できます。つまり、死んだら、その先は何も無いと考えている人は、いつも喪失の不安や恐れを抱き続けるのかもしれません。
しかし、「死んだら終わり」と普段からそう言ってる人が、いわゆる神頼みをする姿を、私は身近で何度も見ています。その様な考えの人も、本当は、今の”生”以外にも、他に”何か”があるのかもしれないと感じているのだと思います。その”何か”が大切なんだと思うのですが、それが何だかよく分からないからこそ、人は様々な恐れを抱くのだと思います。
因みに、世の中には、その様な人の恐れや不安に付け込む人や団体がたくさんあります。昔から次から次へと出てきては、様々な問題を引き起こしているのです。そして、自分達に利する様な理論や仕組みを構築して、自分達だけが金銭的、その他資産的に枯渇しない様にすることで、自分達の”恐れ”を出来るだけ取り除いているというわけです。この考え方が、自分だけ、家族だけ、友達だけ、仲間だけ、我国だけという分離を引き起こし、争いを引き起こし続けている理由の一つなのです。MSMの超偏向報道、フェイク報道が平気で続けられているのは、その流れであり、他人に迷惑をかけるかもしれないと分かっていても、仕方がないと、結果、加担している人達のカルマ(これは、偽が作り出している偽です)はとても重いものだと思います。
これも自己責任なので、本当はいけないと気付いている人は、どんな障害があってもそんなことはやめて、自分の本質のままに生きた方がいいのではないかと思います。本質は共存、共栄、共生だと本当は気づいているのではないですか。選択は自由意思です。自分だけ、家族だけ、友達だけ、仲間だけ、我が国だけと思っている人達などが、今やっていることは、詐欺師の様に、”あなたの恐れを取り除いてあげます”とか、出来もしないことを言いながら、自分達の物質的不安定を取り除いてる人達と同じことをしているだけにしか見えません。
私達は、この様な口車には乗らない様に気を付けたいものです。はっきり言いますが、他人には、アドバイスは出来ますが、誰かを救うことは出来ません。出来るのは、アドバイスや気付くきっかけを与えることだけです。なぜならば、自由意思という法則があるからです。最後に何を選択するかは、本人にしかできません。つまり、救い主は自分なのだということです。これについては、前にも書きましたので、ご興味のある方は、そちらをご覧下さい。
世の中を冷静に見てみると、なんて多くの人達が、なんとか恐れを取り除こうと思い、藁をも掴む思いで多額の金銭を支払い、様々なことを試しているのでしょうか。それでも、なかなか恐れや不安を取り除けないのはなぜでしょうか。
それは、自分の外側にばかり意識を向けて、何かを探そうとしているからです。そして、それは必然的に他人軸を渡り歩く事になるのです。あそこの有名な人、こっちの有名な人と何人も渡り歩く様になる方も多いのではないでしょうか。その様なことをしていると、いつも、軸が定まらずフラフラしている状態になりがちです。場合によっては、全ての財産などを奪われてしまうことになりかねません。最近の政治家テロもそれが一因だと報道されていました。これでは、さらに生活や、気持ちの不安定さから来る恐れがプラスされてしまいます。
だから、”何か”を探すには、自分の内側を深く見つめるしかありません。目の前のことをきちんとやることです。しかも小さな事でも出来るだけ最善を尽くすことです。そして、静かな時間を作り内観することです。それを続ける努力をし続けたら、必ずその何かが分かります。その何かとは、”神我一体”ということです。何を不遜なことをと思いますか。でも、努力し続けていると、不安定さが、だんだん安定してきて、不安や恐れが少なくなるとともに、その何かが次第に分かるようになってきます。それを続ける努力をし続けていれば、いつかそのものの境地になります。だから、自分を見つめる努力をした方が探し物が早く見つかり、恐れがなくなるのです。
昔から多くの先人達が言っています。「探し物は、家の中にあります。」そういうことだと思います。
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