成就の秘訣

意識
成就の秘訣
「成就の秘訣は一切の物事を云い争わず疑わずに為すことである。」
成就とは、真我覚醒し、真我顕現することです。それは、自分が既に愛そのものであることを自覚し、愛そのものを生きることです。

 私は、上記に書かれている”一切の物事を云い争わず疑わずに為すこと”という言葉の意味が今までよく分かりませんでした。簡単に言うと、なぜ嫌なことをしなければならないのという思いがあったということです。そんな思いがあるのに”一切の物事を云い争わず疑わずに為すこと”なんてできるものかと思っていました。自分の目の前の事象に対して、子供の頃からなぜこんな事しなければならないのだと、いつも事ある度に思っていました。それらを、ただ単にやりたくないから、自分のやる事じゃないなどと年を重ねるにつれて、自分の利になることかどうかという基準で区別、選択してた様に思います。例えば、お金になる事なのか、流行りかどうか、出世に有利に働くかどうかなどの動機で生きていた様に思います。つまり、他からどう見えるかに意識が行っていたのだと思います。持ち物や着るもの、音楽など、いろいろなものに流行を追いかけて悦に入っていたのかもしれません。(因みに、これらのことが良い、悪いとは言ってません。意識がそこにあるということです)さらに、自分にとって都合の良いものは善、悪いものは悪と区別、差別して来た様にも思います。また、自分が置かれている立ち位置や経済的などの諸条件に絶えず不満を持っていた様に思います。例えば、世に言う成功者を見て、なぜ、あの人であり、私じゃないのかなどと、何も分からず嫉妬したり、僻んだり、怒ったりした事もあったということです。故に、いつもイライラしたり、不満を抱えていたりして、絶えず苦しくて仕方がなかったということです。内を観ずに外ばかり見ている自縛状態です。なのであらゆる本を読んだり、あっちこっちに行ったり来たりして右往左往していました。その結果、余計な観念、概念を溜め込んで、余計に訳が分からなくなってしまった様に思います。しかし、それらは無駄ではなかったのかもしれません。無駄な努力から本当の努力に気付きましたから。それは本当の自分に気付き、そのものを生きることです。そうできるまでの努力が本当の努力だと思います。私達人間一人一人には他の人には代替できない役割があるのです。その一人一人の道を正しい思いで歩むことにより自分に必要なことを学び、本質へ向かうのです。

「一切の物事とは自分の成長の過程にあるものである」

この様に、ある聖人は言っています。
つまり、自分の目の前にある様々な事象に、どの様な意識状態で対処するか、それが大切だということです。私達人間は、実は”思った通りに生きている”ということなのです。それ程までに私達人間の思いの力は凄いのです。
例えば、最近私にある出来事がありました。仕事のやり方、進め方に対する考え方に関するものです。相手の方は、度々感情的に対応してトラブルを起こしている人です。周りの人達も腫れ物に触る様な態度です。私は他の同僚に対する接し方と同じ様に接してます。しかし、ある仕事の進め方に違和感を感じたらしく感情的にその不満を私にぶつけて来ました。私は「分かりました、すみません」と対応しました。しかし、気になるので他の同僚や責任者に私に落ち度があったか聞いてみました。その答えは「まったく問題ありません。嫌な思いをさせてすみませんでした。」というものでした。今回は感情的に言われたことよりも、私の仕事の進め方に問題があり、それによって周りに迷惑をかけたのかなと、そちらの方が心配になりました。でも、結果的に問題なかったので安心しました。
しかし、誰に対してもあの様に感情的に対応してたら、彼はどうなってしまうのだろうと考え出したら、なんだか理不尽に言われたことに対して怒りの感情が次第に大きくなってきました。感情的種類としては、怒りや恨みなどです。本来、本質には無いものです。この仮想に飲み込まれて、怒りに意識を向け、その波動で対処したら怒りを増幅させるだけです。それでは余計に事態を混乱させかねません。私達人間は、思いたい様に思い、言いたい様に言い、やりたい様にやるものです。なので、いちいち腹を立てても仕方がないのです。同じ事でも、人によって反応の仕方や表現の仕方が意識レベル(どこに意識を置いているか)で異なります。私は、今回のその事象に対してどう対処したら良いか少し考えました。そこで、四月に書いた”愛を送る”を実践してみることにしました。それで私は、相手に対して愛を送る努力をしました。怒りや恨みというニセモノが押し寄せて来るのを”後方(しりえ)に下がれ”と命じながらです。そして、その人に”光を、心に安らぎを”という思いを送ると共に、その人の成長を願ったのです。馬鹿馬鹿しいと思う方も多いかもしれませんが、本当にそうしたのです。
今回の事象は、その人の思い込みと直情径行型の性格から来るものだったのですが、いずれにしても、自分に立ち向かってくるものに愛を送る努力をした結果はどうなったかと言うと、次にその人と顔を合わせた時に、なんと先方から(初めは少しバツが悪そうではありましたが)優しく話しかけて来たのです。先日あれほど感情的に喚き立てたのにです。その人は、今まで”トラブル”を起こした後に自分から話しかけることは無かった様です。
実はこの間、私は心の乱れを収めるのに数日要しました。でも、怒りや恨みなどの感情というニセモノを後方に追いやることができた様な気がします。なので、得るものがとても多かったと思います。この件があるまで、まだまだ偽我の都合の良い様に、ものごとに対処することに意識が向いていたのかもしれません。しかし、今回の件で、私に起こることは、自分の思いや至らなさに原因があり、また無駄なものはなく、そして大切なことは、それらに、どの様な思いでいかに対処するかなんだと、あらためて分かった気がします。要するに今回の件で、上記の言葉の意味が分かったのです。自分に立ち向かってくるものほど自分を成長させてくれるのかもしれません。
実は、目の前のことは自分の思いの現れであり、本来本質には無い感情を自ら創り出し、それに飲み込まれて右往左往しているのかもしれません。
ある聖人の言葉に、
「我、この世のすべてを飲み込み、無限の至福の大海に錨を下ろす」というのがあります。それを思い出しました。この世のすべてを飲み込むとは、肉の目に見えるものや、目に見えない五感、感情、理性、心などを含めた、文字通りすべての仮想を制御するということです。つまり本質との融合状態になることです。そうなると無限の至福状態にいることを実感できるということだそうです。実在は生命(愛)のみと言っています。
要するに、”神は、私以上に私に必要なものが分かっている”ということなのです。なぜなら、”我内なる神と我とは一体である”からなのです。つまり、意識を本質というホンモノに置くことが大切なのです。偽我というニセモノを後方に下げるのです。自分の思いと言葉と行為で招いた”今”を正しながら生きることと、自分にしか歩めないその道を着実に進み行くしかないのかもしれません。大切なのは、他を咎め、裁くことではなく、自己改善だということです。繰り返しますが、自分に立ち向かってくるものほど自分を成長させてくれるのかもしれません。だから、感情など仮想に飲み込まれたりして挫けてはならないのです。実在は愛のみであり完全です。
 私達人間は、成就するという意思を持ち続け、あらゆる困難に耐え、それでも道を進み行く勇気を持って努力し続ける事がとても大切なのではないでしょうか。それが一人一人歩む道は違っても、唯一共通していることだと思います。

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