我を生きる
私は、今まで、運命、宿命、カルマなどについて自分なりの考えを何度か書いてきました。その内容について簡単に言うと、自分の目の前の事象とは、自分が幾転生の中で種を蒔いてきたことが、今生になって、そのいくつかが結果として芽を出してきたということであり、それは、自分にとって解決しなければならない課題ということです。その課題は解消するまで何度でも形を変えて現れるものであると書いてきました。また、人は皆、生まれる前に、今生で経験したいことなどを、生前計画書に描いてくること、それは運命とも呼ばれ、また、課題として自分が刈り取らなければならないことを宿命として書いてきました。しかし、私達は、愛の種ばかりを蒔いてきているのならいいのですが、毎日、必ずと言っていいほど、恨み、嫉妬、憎み、差別、などの分離感というネガティブな種を蒔いていると思います。もしそうならば、ずっとその芽を刈り取り続けなければならないことになります。仮に、一万回転生していたら、そこでやらかしたことはとんでもない数になります。それらをすべて解消すべきカルマとするならば、いつまで経っても、転生は終わらないのではないでしょうか。私には、この様な疑問がありました。それに対する一つの答えとして、上江洲義秀さんの言葉をご紹介します。
・「我を明想するものにカルマ無し」
我とは大元(神、本質、命、愛)のことです。それを明想するとは、大元との臨在感を感じることです。それは、自分の本質を知ることでもあります。
・「運命、カルマは本当は無い。自分で作り上げて苦しんでいる」
運命、カルマとは、それぞれ、この世という、私達が肉体を纏っていろいろ経験する為に創り上げた現象世界において、思ったことや行ないに対して現れる課題のことや、また、その課題を解決する為に経験したいと思って生前計画したことを言っています。それらに対して、上江洲さんは、その様な運命やカルマは本来はありませんと言っているのです。つまり、運命やカルマというものは、もともとは、偽我の自分が創り上げたものとも言えます。多くの人々は、その様な、偽我が創り上げたものに、いつまでも視点を合わせているから、自ら苦しむことになるのだと言っているのです。
・「法則を無視すると苦しむ」
法則とは、無限の創造、無限の建設、無限の生かしである愛のこと、すべてには(人間、動物、鉱物、植物、人工物などすべて)命が入っていることを言います。つまり、一命一体である(命は一つ、一元であり、体を作っている素材は同じ一つのもの)から、自他一体であり、全一体ということであり、すべては、絶妙な相互作用で調和を取りながら繋がっていることになります。例えば、他人を傷つけたら、それは自分を傷つける様なことになるということです。もともと、全一体なのに、肉体を纏っているときの偽我が、いらない分離感に執着するあまり、それらの完全法則を無視するから苦しむのですよと言っているのです。
・「一転生、神を生きる」
これは、人生を生きるのではなく、神生を生きよと言っています。つまり、完全法則(無限の至福、全一体の境地、我は神、命、愛、愛の種、幸せの種、神との合一)に気付いたら、それで生きればいいだけなのであり、肉体(偽我)で生きるのではなく、私(我、愛、命)として生きるということです。そこには分離感、差別はありません。つまり、命ー私ーすべて、あなたが全体の命である、ということです。完全法則そのものを生きよと言っているのです。
・「愛とは無限の完全法則」
これはそのまま、この通りです。それを、私達は肉体を纏ってしまうと、正しく表現していないことがたくさんあるのです。この間違った表現(特に分離感)を修正するために転生して自分に必要な体験をするというわけです。どういう間違いかというと、例えば、分離や差別の思い、その思いに基づいた言葉使いや行動などの表現をすることです。それによって分離感や差別をじわじわと醸成してしまうことになるのです。これらは本来いらないことなのです。なぜならば元々全一体なのですから。だから、本来は、共存、共栄、他を生かすということになるのだと思います。よくよく考えてみると、取るに足らないことで争い傷つけ合って苦しんでいることが分かると思います。いつまでもそんなこと(殺して生きる)をしてないで、生かして生きるということに気付きなさいということを言っているのです。
・「本質は何の影響も受けない。本質には、闇ですら、指一本触れることはできない」
私達の本質はエネルギー体です。愛であり、命であり、不滅にして実在であるということです。そういう存在だということです。つまり、恐れることは無いということです。
・「この世のすべて(結果)を飲み込み、無限の至福という大海に錨を下ろす」
つまり、上記の諸々のことに気付いたら、偽我に視点を置くのではなく、命、完全法則に視点を置いて、ただそのものを生きればいいのであり、そこに錨を下ろせばいいと言っているのだと思います。
私は、これらのことに気付くというのが、私達がこの世に下りてきた理由であり、それは、本質に目覚めるということであり、偽我から真我に目覚めることでもあり、それ(愛、命、完全法則)を受け入れて生きること、つまりそれが、神そのものを生きる、ということなのだと思います。そうすれば、もう、至福の世界にいることになるのかもしれません。人生を生きること、すなわち、それが神生を生きることになればいいのだと思います。
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