我を生きる2
私は、自分の本質を、”ずっとここにある存在”と認識しています。それを命と言ったり、光、愛、真理、本質、神などの言葉で表している人がいます。”私は愛、私は命”などと言ってみて、しっくりくる言葉を使えばいいと思います。
私がなぜ自分の本質を、そう思うのかというと、それは、昔からたくさんの人達が言って来た”自分を知ることが大切だ”という言葉がずっと頭から離れず、折を見て、それを追求し続けて来た結果辿り着いたのが、冒頭に書いた、”ずっとここにある存在”というものだったからです。そういう感覚を実感したということです。「あぁ、ずっとこうなんだ」という感覚です。因みに、アメリカの物理学者のカク・ミチオさんは、「一番微小な存在が宇宙を支配している」と言っていたと、同じ物理学者の保江邦夫さんが自分の本に書いてました。私は支配という言葉が少し気になりましたが、今はこのことは置いておきます。
我を生きるという言葉があります。どういう意味なのでしょうか。私はこう思います。我は、元々の意識である、無限意識、神性意識、愛の意識、宇宙意識など言い方はいろいろあります。その中で、私は無限意識という言葉を使うことにします。いわゆる無限ですから、言葉で表すことはできません。この様なずっと続く意識を生きることを言っているのだと思います。無限ということは、ありてあるものから学ぶことも無限にあるということになります。次から次へと自分が認識していないものが生まれてくるからです。そうなると、必然、傲慢になりようがなく、謙虚な姿勢になるのではないでしょうか。永遠に学ぶ対象が生まれ続けるのです。すべてを知った気でいたら、それは無限ではなく、自分で制限をかけることになるのです。つまり、謙虚な姿勢にならざるを得ないのかもしれません。逆にそうでないと、この意識には到達できないのかもしれません。
では、私達が生きている地球での現状はどうでしょうか。私はあなたとは違うなどの、個人意識や差別意識・分離意識で生きている人が非常に多いのではないでしょうか。念のために言っておきたいのですが、これは、皆んなが一律的に同じ様にやるという事を言いたいのではなくて、それぞれが、他人に強制することなく、自分の好きなことをきちんとやるのが基本であるということを言いたいのです。自由意思の尊重と選択の自由がきちんとなされていれば、差別・分離意識はそこにはないのだと思います。ところが現状は、人種差別、学歴差別、職業差別、貧富の差、身分の差など、わけの分からないことで差別し、分離しています。そこには、共存、共栄、共生、慈しみの心や、他の人の悲しみや痛みが取れます様になどの心があるのでしょうか。あるのは、自分だけ、家族だけ、友達だけ、国だけなどの分離意識ではないでしょうか。その証拠に、足の引っ張り合い、他人への強制、争いや戦争が絶えません。この状態が、我を生きることなのでしょうか。そう捉えている人もたくさんいるのでしょう。しかし、ここには、慈悲の心、ありてあるものから学ぶ姿勢、謙虚さなどはほとんどありません。
目の前に起きることは、人間の思いから始まります。ならば、思いを変えないと、平和にはなりません。多くの人が言っていますが、思いが具現化するスピードは速くなるそうです。つまり、自分が思ったことを言葉に出してから、実はそれは間違いだったと気付き、謝罪するなどの、いわゆる反省、修正する時間がどんどん短くなるということです。極端に言うと、思った瞬間に具現化してしまい、もう取り返しがつかない事態になるかもしれないということです。だから、今からでも、自分の思い癖の修正を始めないと、自分がうっかり思ったことが具現化して実際に巻き込まれて、もっともっと苦難に見舞われるかもしれないということです。
これからは、しばらくの間、想像を絶することが起きる可能性があると思います。今話したことを理解できず、今まで通りに思い、話し、行動する人が変わらない限りということです。だから、世界がこれ以上酷くならない様にするためには、どれだけの人が分離意識を修正して、共存、共栄、共生という調和的意識に修正できるかだと思います。間違いなく、場が変わって来ています。自分を内観して、自分の本質を見極めて、何をどうしたらいいか本気でやる時が来ていると思います。
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