我を見失っている状態
ある意味、私も含めた地球上のすべての人間が、その様な状態なのかもしれません。初めの”一つの存在”(我)からの忘れ具合が小さいのか、大きいのかの違いがあるだけなのかもしれません。
一人一人の発する波動は、微妙に違うそうですから、完全に合うはずがありません。その違いが忘れ具合であり、それぞれのズレが生じる原因だと思います。そのズレが、様々な葛藤を生み出して、日々の暮らしの中で、意見の違いになったり、争いになったり、そういった様々な出来事の元になっているのだと思います。
「私達は、初めは、一つの状態で”在るもの”でした。それを我と言います。我は、自らを二つに分けました。我は、拡がる力を持ちますが、もう一つは縮まる力を持ちました。我は、自らをどんどん分けていきました。そして、それぞれに個性を持たせ、自由意思を持たせました。そうしないと、ただのロボットの様になってしまい、自らが楽しめないからという理由からでした。それから今に至るまで、分けられたものが、一緒になったり、また、分かたれたりを繰り返しています。それらは、波動が同じ様なものが集まりグループを形成して、そこで落ち着いています。それらは、たくさんの層を成しています。軽い波動のもの(スペース大)は自分より重い所へは行ける様ですが、重い波動(スペース小)のものは、軽い波動へとは行けない様です。行ける様になるためには、自らの波動を軽い方へ変えなければなりません。そのためには、地球の様な学舎でたくさんの経験をし、感情を味わい、初めの一つのときの状態を思い出す必要があります。そうして自らを軽くして我に近づいていきます。そのためには、様々な気付きが大切になります。そんなことができる地球の様な学舎とは、例えて言えば、変電所みたいな所ということです」
上記の様な考え方があります。この考え方で私達のことを見てみると、全員、初めの、ただ一つの在るもの、いわゆる”我”のときの状態を忘れていることになります。その忘れ具合はそれぞれ違います。それぞれが初めに戻ろうとしているのかもしれません。しかし、それぞれは自由意思を持ってますから、みんな揃って、はいゴール、とはいきません。だから、人によっては、何でこんなことが分からないのだろうなどと思ってしまうのでしょう。波動が軽くなった人は、自分よりも重い人のサポートをするのだと思います。こちらでも、あちらでもです。しかし、その比重はほとんどがあちら側での役目になるのだと思います。守護、指導、後ろ様という存在です。こちらでは肉体を纏ってますから、なかなかそんなことは出来ないです。自分が主役でいろいろしなければなりませんから。だけど、地球では、存在するだけで他人の役に立っているのだと思います。
この考え方は、善も悪も無い、誰かを裁かない、全ての原因は我が内にあり、ということになります。だから、この考え方を受け入れない人、受け入れられない人は、これを、お花畑理論と呼んで切って捨てる人もいます。実際、何が本当かは分かりません。ただ、自分が死んでから初めて分かるのでしょう。それも面白いものです。
たしかに、地球上では、戦争、人身売買などの様な、酷いことが実際に起きています。その事象をみたら人を傷つけたり、強制したり、いわゆる悪いことになります。しかし、この事象を一つのステージと見たら、参加している人達はもしかしたら、自分の描いてきたブループリントに従って、この経験の場を選択してきたのかもしれません。自分に必要なこととしてです。だから、無関心でも構わないと言っているのではありません。出来るだけのことはした方がいいと思います。しかし、人間には、この世では、出来ないこともたくさんあります。肉体を纏っているので、限界があります。だから、嫌だなと感じることに意識を向けすぎない様にするのも、自分軸でいる為には大切だと思います。そのかわりに、自分でこうしたい、こうなればいいなというところに意識を集中した方が、精神階層には多大な貢献をすることになると思います。要するに、人それぞれ、自分の役割があるということです。
人は、どうしても、誰かを助けたい、なぜこんなことを平気でできるんだ、なんとかしてやっつけないともうダメだ、などの様な気持ちになり、だんだん過激になりがちです。あいつを捕まえろ、裁け、処刑しろなどという感情に囚われてしまったら、自分が嫌いな人と同じ感情を抱くことになってしまうかもしれません。そして、何をどうしていいか分からなくなったら、それこそ、”我”(初め)を忘れた状態です。
つまり、私達は、あり得ないという言葉を使わない様にして、目の前のことをきちんとやることが、我にたどり着く、最短距離の道を歩くことになるのだと思います。
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