探し求めているもの

意識

探し求めているもの
 私達人間は、欲しいものが手に入ったときや、目標などが、困難を極めた末に成し遂げられたときには、大きな充実感や達成感などを感じるのではないでしょうか。でも、その高揚感はあっという間に消えてしまい、人はまたすぐに、心が満たされる何かを探し始めるのだと思います。
なぜでしょうか。いつまで探し続けるのでしょうか。それは、たぶん、胸の辺に、”何か違う”と感じるものが、何となく残っているからで、その感覚が無くなるまで、その何かを探し続けるのだと思います。
つまり、その人の心と魂が素晴らしいと思うものが見つかるまで、それを探し求めて続けるということなのかもしれません。
一体それは何でしょうか。”お金、豪邸、地位、名誉、権力、支配力、絵画、美術品、宝石、羨望、高級車、自家用ジェット、美’などでしょうか。この他にも、この地球には、まだまだたくさんの、いわゆる魅了されるものがあります。これらのものの、いわゆるトップと称されるものを手に入れたら、何か違うという感じは無くなるのでしょうか。しかし、これらはすべて、その何かを探す、一種の道具に過ぎないのではないでしょうか。それならば、これらの道具を使って一体何を探しているのでしょう。
 私達人間は、様々な家族構成の元に存在しています。両親と子供、母子家庭、父子家庭、義母、義父、養子、連子、両親が分からない人など様々です。そして、日々暮らしていくには誰かしら、必ず何かしらの関係を持つ人がいます。親、子、兄、姉、弟、妹、親代わりの人など、いろいろな関係がありますが、やはり、自分がある程度育つまで接点が毎日あった人からは、多大な影響を受けていると思います。その様な人に対して、感謝の思いは当然あるのだとは思います。しかし、恨みに思ったり、恥ずかしく思ったりすることもあるのではないでしょうか。例えば、親がもう少しお金持ちだったらとか、有名人だったら、カッコ良かったら、美人だったら、やさしかったら、真面目だったら、学歴が高かったら、教授だったら、この職業だったら、あの職業だったらなどと思わせられる出来事が何度か誰にでもあると思います。
私にも何度かありました。こうだったら良かったのに、なんでそうじゃないんだなんて思ったことがありました。こういう時は、目の前の現状を受け入れられない、または受け入れようとしない、そして、何でも他人のせいにしている状態なのかもしれません。この様な状況のときは、ある意味、被害者意識というものが多少なりともあるのではないかと思います。そんな時には、気持ちが揺れ動き、思いが堂々巡りになりがちなのではないでしょうか。こんな精神状態から抜け出すには、いろいろ経験して気付かないといけないのかもしれません。
こんな精神状態の時、自分の気持ちの中に、別の父親だったら、母親だったら、兄だったらなどと、他の誰かを代わりに欲しいと本気で思う人もいるかもしれません。世の中には実際にその意向通りに行動する人もいるかもしれません。そして、それらは良い悪いではないと思います。それらの様々な場面でその人なりの貴重な経験をしながら、何かに気付いていくのだと思います。人によっては、最初からの環境のまま、ずっと死ぬまで暮らす人もいれば、何度も何度も環境等を変えながら暮らす人もいるでしょう。そしてそれはどちらも本人に必要なことを、ただやっているだけなのだと思います。傍から見て思い通りになっている様に見えて、ほとんどすべてが安定している様に見える人も、実は心の中は絶えず何かに揺れ動いているのかもしれません。この何かとは、一体何なのでしょうか。なぜ揺れ動くのでしょうか。
この様に、欲しいものが手に入っても、困難を極めた末に目標が成し遂げられても、家庭環境などほとんどすべてが安定してる様に見えても、安定してなければ特にそうかもしれませんが、この何かが違うという様な感覚が胸に残るという人は多いのではないでしょうか。どうすれば消えるのでしょうか。
 私にとって素晴らしいものとは、「心の平和と幸せ」です。それをお互い感じられるような世の中にすることです。そこに行くまでの一人一人の生き様そのものが、素晴らしいものだと思います。そう考えると、もうすでに、それぞれが素晴らしいものの中で生きている事になるのかもしれません。私はそう思う様になってから、あれが欲しい、これも欲しいという、いわゆる物欲というものが、かなり少なくなりました。そうしたら、出来るだけ身軽になりたくなり、かなりのものを整理しました。自分でも変われば変わるものだと思います。物欲が少なくなると同時に、”胸にあった何か”も少しだけ無くなって来た様に感じます。その分、満足感が増えました。
私が、なぜこの様な気持ちになったのか、それは、自分の内側を見つめ続けて、自分の本質を知ろうとしたからだと思います。その本質が望んでいることが分かり始めると、本質と偽我との差が縮まるのだと思います。そうすると、何となく胸に残っている何かの正体に気付き始めるのだと思います。それは、本質の思い、意向、望み、つまりそれらは自分の本当の思い、意向、望みということです。この様に、私達人間にとって、忘れてしまった記憶を取り戻すことが、人生を生きる目的の一つなのだと思います。

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