日常的なその人らしさ
その人らしさというものは、どこにいても、それは、何気なくでるもの、なのではないでしょうか。言葉や、仕草などに、やはりその人らしさというものは出ると思います。そして、それを観察することで、その人がどういう人なのかを推し量ることができるのではないでしょうか。
自分を見つめることは、非常に大切です。しかし、たまには、どこかに行った時などに、他人を観察するのも面白いものだと思います。カフェに行って寛ぎながら周りのやり取りを何気なく観察したり、バスや電車の中でもそれは面白いかもしれません。
私が何気なく観察してしまう場所は、スーパーのレジなどです。そこでの、店員とお客さんのやり取り見ていると、結構興味深いものがあります。同じレジでのやり取りを見ていて、レジの方の応対の仕方は、ある程度一定であり、お客さんによってそんなに変わりはないと感じます。それなのに、お客さんの反応は人によって本当に様々なものだと感じます。
例えば、担当の方の声が少し小さいかなと感じたレジがありました。私はだいたい機械的に済ませる方なので特段気になることはないので、その時もいつも通りに精算して過ぎ去ろうとしました。そうしたら、いきなり大声で怒鳴る声が背後からしました。何事かと振り向いたら、年配の男性が「いらっしゃいませくらい言え」とレジの方に怒鳴っていました。またその返し方が非常に小さな声で「言いました、、、」だったのでまた怒鳴られるかなと思いましたが、一言大声を出して気が済んだのか、そのまま行ってしまいました。ああ、やれやれという感じです。因みにそのレジの担当の方は今だに声は小さいままです。どうでもいい話ですが、聞こえるから別にいいじゃないかと思うのですが、どうなのでしょう、いろいろな反応があるのでしょうね。
他の反応として気が付いたのは、イライラ感を出している人、最初から最後までせかせかしている人、ありがとねなどと明るく声をかけて行く人など様々ありました。一つの事象に人それぞれの反応があり面白いです。人の振りを見て直すことも出来ますから。
この様に人によって様々な反応が見られるのは言葉に対してもあると思います。同じ言葉に対する解釈の仕方が人によって違うものになります。だから言葉で相手に伝えるのが難しいのです。人によって言い方を考えて伝えるようにしないとなかなか伝わらないのかもしれません。同じ本を読んで解釈が全く違うのと一緒です。
これは、バイブレーションの違いです。その人が持っているバイブレーションで受け止めます。なので、どんなに努力しても伝わらないことがあるのです。仕方がないことなのでしょう。土俵が違いすぎるというか、端から取り組むのが困難すぎるということです。
こうして見るとなかなか面白いですね。73億人いるとしたら73億通りのバイブレーションがあるのでしょう。もちろん凄く近いものもあるのでしょうが。そして、この違いは良い悪いではなくて、ただそうなだけです。荒い波動は、重くて荒っぽい言動に、繊細な波動は、軽くて繊細な言動にということになるのです。そして自分はどこを選ぶかなのです。だから、自分がどこなのかを認識することができたら、その時得られる感じ、感情をしっかり味わって、飽きて、もういいやとなったら、別のを選べば良いのです。味わい尽くしてやり切ったら自然に変化するのかもしれません。その様にして、だんだんと日常的なその人らしさが、完全意識に近づいていくのだと思います。
日常的なその人らしさは、その人のその時の一面です。それが変化し続けていくのが自然の摂理なのかもしれません。
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