明日を思い煩うな
これは、聖書に書かれている言葉だそうです。私は、山川紘矢さんの「すべては良きことのために」という本の中で知りました。それによると、イエス様が約二千年以上前に言った言葉だそうです。どういう意味なのでしょうか。教会の説明はこうです。
次に、私なりに思ったことを話します。あくまでも私見に過ぎませんので御了承ください。
人間は、生前計画書を描いて生まれてきています。そこでは、自分で両親を選び、自分で名前を決め、自分で今生での課題をいくつか決めて、何歳まで生きて、どの様に亡くなるかまで決めてきているそうです。しかし、地球で人間として生まれて、肉達を纏うと、それらの記憶を忘れてしまいます。そして、脳を使い、この物質世界でのいろいろな活動をしていきます。その過程で、父親、母親、兄弟姉妹、祖父母、教師、友人などから、様々な生き方、常識、伝統、価値観などの教えを受けて、それらを脳に記憶していきます。いろいろな制限をかけていくということです。そうして、脳を使うことで現れる、表面意識やエゴという偽我ができてくるわけです。この様にして生まれた偽我が、この世での様々な場面で、いろいろな判断をしている様に見えますが、実は魂が毎瞬決めている様です。その結果として、自分の目の前に起きてくる現象は、自分の本質、魂を磨くために必要なことなのです。その為に、魂が瞬間瞬間に必要な判断を下しているということです。そして、偽我は、あらゆる結果を前にして、なぜこれを選択したのだろうと後悔したり、不満に思ったり、自分をダメな人間と思ったりして、そうした判断が間違いだったと思い込む訳です。そうしてまた、トラブル、困難、争いなど、いろいろな現象を引き寄せて、魂磨きに役立てる訳です。それらの現象を使い、自分の今生での課題の一つをこなして何かの気付きを得たら、偽我が消えて、より大元に近づけることになるのだと思います。
だから、本来は、何も焦る必要はないのだと思います。自分で撒いた種が現象として現れているので、それを刈り取る道を歩いているわけです。自分で作った道を歩いているということです。表面意識はいつも、何でこんな道を選んだのかとか不満を言いますが、その選んでしまったところが、または、選ばされたと思っているところが、魂的には必要だったという事です。それを経ないと、魂磨きにならないからです。だから、目の前に起きてくることをしっかりと受け止めて丁寧に対処することが大切なのです。今の自分を受け入れて、決して否定しないということです。この仕組みが分かれば、明日を思い煩うことをしなくてもいいのだと気付くのではないでしょうか。
私は、”明日を思い煩うな”とは、今に集中する、今を生きる、中今に生きるということを言っている様に感じます。そして、身・口・意を正す努力をして、今の自分を調和的想念で満たしなさいと言っている様に感じます。もしそうだとしたら、明日を思い煩っても仕方がないのかもしれません。そういう私は、毎日のように、明日を思い煩っているのですが。まだまだ修行が足りないですね。因みに上江洲義秀さん曰く、修行とは修正することだそうです。これについてはまた。
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