明日を思い煩う必要はない

意識

明日を思い煩う必要はない
 この言葉は「心身の神癒」(マクドナルド・ベイン著)に書かれている言葉です。この後に続くのが「明日は今日の愛行によってすでに解決済だから」という言葉です。私はこれを読んで、改めて「その通りだ」と思いました。
この言葉の土台になっているものは、次の様なものだと思います。それは、「私達人間は、明日に生きることはできず、今に生きているのであり、実在(本質)には時間、空間、壁など無く、それは今この瞬間であること、その一瞬一瞬を己れがどの様な思い、言葉、行為で存在するか、つまりどの様な意識状態で生きているかが大切だ」というものだと思います。だから、愛そのものであれば恐れ不安など無いということになり上記の言葉になるのです。愛は唯一の実在だからです。しかし、その実在を言葉にして説明すると、なにかしらの観念、概念になってしまいます。なので、本当は実在を説明するのは不可能なのかもしれません。愛という言葉も実在の一面しか説明できてないということです。因みに、上江洲義秀さんは実在を、無形、無双、無色、無臭、無音と言っています。実感した人しか分かりませんね。
そして、実在は自らを表す為に無数の仮想のものを創造していると言います。
実在が自らの表現体として創造したもの(肉体を含めたすべてを指します)は一瞬一瞬変化しています。次の瞬間、それらは”同じ”ではないのです。その実在という説明不能なものがすべてを生かしているのであり、私達人間の本質はその説明不能なもの”そのもの”だということです。
では、それ(自分の本質)を自覚するにはどうしたらいいのでしょうか。それは、自分の意識を実在(本質)そのものの波動にして実感するしかないのだと思います。その為には心に一点の曇り、汚れがあってはならず、愛で満たし、全一体の意識状態でなければなりません。なぜなら、無双だからです。そうなるためには”心の全過程を徹見し理解しなければならない”とベインの本には書かれています。己れの心の全過程を徹見することで己れの思い癖などが分かるのです。つまりニセモノをきちんと把握し理解することで実在に近づいて行くことができるということです。そうしていくうちに、いつの日か一瞬にして意識が本質(実在)と融合するのだと思います。

 私達人間は、あることについて完璧に分かったとその時思っても、日々の生活の中で困難と感じることが起きたり、それが続いたりすると、日々”正そう、直そう”と思って努力している自分の思い癖や悪習が全面に出てきてしまいます。いわゆるニセモノがです。そして、またまたいつもの様にニセモノで目の前の事象に対することになってしまうのです。
繰り返しますが、私達は、あらゆるものごとを”自分はもう完璧に理解した”と思い込んでいることが多いのかもしれません。いわゆる観念、概念というものです。これを信じ込んでしまうと自らを縛る事になるのです。私が今話していることもある意味、観念、概念なのです。
例えば、”愛するということを理解した”と自分で感じて、これからは愛そのもので生きようと決め、そういう心持ちで生きようと努力しているとします。しかし、日々自分の目の前に現れる様々な事象に”悩んだり、苦しんだり、痛みを感じたり、悲しみを感じたり、迷ったりする”ことで、五感、感情、理性に流され、本当に愛そのもので生きるという意思を持ち続ける努力を少しでもやめてしまったら、自分の思い癖や悪習を正すことができなくなってしまいます。それだけならまだしも、さらに悪習などを上乗せしてしまうかもしれません。つまりそれは、自分の思い癖、悪習を正すことができず、”今までの意識”のままでいるということであり、故に苦しみや悩みなどから解放されないことになるのだと思います。どこかで意識を切り替えないと”明日を思い煩う自分”から解放されることはありません。(因みに、愛するということを本当に理解したならば、悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、迷いなどしなくなるのだと思います)
要するに、意識を切り替えるということがいかに大事なことなのかに気付くかどうかなのだと思います。しかし、それに気付くということはとても難しいことなのだと感じます。なぜなら、今まで多くの人ができてないからです。なぜできないかというと、この世の何かに強い執着を持っているからなのかもしれません。お金なのか、権力なのか、地位名誉なのかは分かりませんが、気付かないのは何かに執着しているからなのかもしれません。
この世のすべては影、幻と言う人もいます。ある意味私もそう思います。いずれにしても私は、影、幻(肉体、お金、物質、権力、名誉等)に執着する必要などないと思います。
なぜなら、それらすべては実在の表現体として創造されたものであり、いずれ必ず無くなるものだからです。実在が作った仮想ということです。とは言うものの、実在が創造したものはこの世を生きる為の大切な道具です。要はそれをどう使うかということです。
ここで、私達の本質は久遠常在、不滅の実在である生命そのものだとします。そのものであれば、改めてそれに成ろうとする必要などありません。既にそのものなのですから。つまり実在に成ろうとする必要などなく、意識状態を本来のそのものに切り替えればいいのであり、その様な”成ろうとする思い”が余計なことの様な気がするのです。  
 私達人間は毎日毎日自分や他を良い悪いと裁いています。しかし、いったい何を持ってして良い悪いなのでしょうか。基準は人それぞれ様々でしょうが、大抵がニセモノ(錯覚故我欲が求めるもの)を得ようと裁き争っている様な気がします。本質が創造したすべての被造物をただただ手に入れようとすることや、また、本質の思いからズレているもの(最たるものは分離感)はすべてニセモノということです。
だから観念に過ぎない己れのその時点での意識を基準にして”良い人”に成ろうとするのではなく、己れの思い、言葉、行為はどうだったのか、またどうなのか、己れの心の全過程を見つめ尽くすのが大切な様な気がします。すべての我欲を理解するとでも言いましょうか。つまり、本質(実在)と融合する為には、自分の思い、言葉、行為を自覚することをし続けるわけです。
 私達人間は、思いを新たにして新しいことを始めたときなどに、慣れてないが故に、他人から叱責されたり嫌な物言いや態度をされたりして、不安になったり自信を失いそうになったりすることがあります。こんな時に、心に潜んでいる自分の思い癖が出てきます。これが、”縁に触れて己れの心の奥底にある思い癖が出る”ということです。人それぞれでしょうが、場合によっては、怒りや恨みや嫉妬を抱いたりするのではないでしょうか。そして、そんな時、自分の思い、言葉、行為などを意識することもせず、何もしないでそのまま感情に流されるままにしておくと、今までの様に何も変わらず”明日を思い煩う日々を過ごす”ことになります。何の努力もせず、何も理解しようとしないで、今までの様に反射的に反応したりしてしまうとその様な日々を過ごすことになります。それは五感、感情、理性などに支配されるままにしていることなのです。ニセモノに支配されている状態とも言えるのではないでしょうか。
だから、その様なこと(感情的に反応することや他を裁くことなど)にエネルギーを向けてても何の解決にもなりません。そんなことをしてても自分の心を汚すだけだと思います。なぜなら様々な雑念で心が満たされてしまうからです。怒りや嫉妬や恨みで反応するということは自分がそれそのものだということです。だから、心は綺麗だけど言葉遣いが汚いだけというのは嘘だということです。
要するに、それらの思い、言葉、行為とは、不調和な想念を撒き散らすということになってしまうということです。それがいつか自分に戻ってきて嫌な思いをするということです。そして明日を思い煩う日々を過ごすことになるというわけです。それなら自分の至らなさを反省し修正する方にエネルギーを向けた方がいいでしょう。たぶん、この意識の向ける先を転換することが大切で、これができる様になる努力をし続けることがとても大切なことなのです。どうしてでしょうか。
それは、他人を変えることはできず、自分を変えることはできるからです。
繰り返しますが、思い、言葉、行為は波動であり、己れが発した波動は必ず己れに戻ります。波調が合う、合わないと世間一般的にもよく言われているではないでしょうか。ニセモノの波動から実在の波動に変わって行けば不安などニセモノの波動を受けなくなるということです。怒りの波動は怒りを引き寄せ、不安の波動は不安を引き寄せるということです。ならば愛そのもの(すべてを労り、思いやり、他を生かすという思いである実在)であれば明日を思い煩うことなど無くなるわけです。そして”今日の愛行によってすべて解決済みだから”になるのです。
これらのことを理解するには、やはり、本質とは何なのかということを理解しなければ分からないと思います。それは、自分とは何ものなのか、それを追求するということです。
本質を言い表すには、いろいろな表現の仕方があると思いますが、要するに、私達人間は本質の中に既にあるということです。別の表現をすると、すでに愛(神)の中に生きているとも言えると思います。すべてがそうだということです。これを一言で言うと”愛一元”と言うのだと思います。
愛一元(実在)の意味が分かると、「明日を思い煩う必要はない。明日は今日の愛行によって既に解決済みだから」となるのだと思います。たとえこの世(仮想)で何が起きてもそうだということです。

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