景色

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景色
 私は、小さな頃から、夕方になると、家の西側にある、地元で一番高い山を、よく眺めていました。その山は、四季折々、様々な姿を見せてくれるので、毎日見てても、全く飽きる事はありませんでした。田舎ですから、空気が澄んでいます。そんな時の夕焼けに染まった山の端がハッキリ見えた時の美しさに一人感動したりしていました。春は、柔らかい緑色になり、夏は、濃い緑色で、秋は、紅葉が綺麗で、冬は、雪が降ると山全体が真っ白な姿を見せてくれて、大変美しいものでした。
近くには、大きな川も流れていました。その水は、たしか日本でも何本かの指に入るほどの綺麗な水だったと記憶しています。そんな綺麗な川で、よく堤防を散歩したり、水遊びや釣りをしたものです。沢蟹やオイカワなどがたくさん釣れました。
今改めて思い出してみると、家の近くには、川がすぐ近くにあり、車で三十分位で山や海にも行けましたから、たくさんの自然にかこまれた生活を送っていたのだなと思います。五十年ほど前は、人の手も入ってない、そのままの自然が残された山、川、海でした。しかし、今は、山は開発され、川はコンクリートに覆われ、海には高い堤防ができて、そこに登らないと海が見えなくなってしまいました。仕方がないのかも知れませんが、ちょっと寂しい気持ちになります。
このように、私が生まれてから二十歳くらいまでの日々の暮らしの中で、目に入る景色は、自然がほとんどでした。同じ様に、人にはそれぞれ、生まれてからある年齢になるまで、様々な、自分が生まれたところの景色の中で、日々の暮らしを営むと思います。都会の真ん中で生まれ育った人、海の側、山の中、世界中では、砂漠、湖の上など、本当にとてもたくさんの景色の中に、人間の日々の暮らしがあります。どれもが素晴らしいものだと思います。そこに長年住んでいる人にとっては、その景色は、日々の暮らしで慣れ親しんだものなので、特に何も感じないかもしれません。でも、そこを離れてしまった人は、いずれ懐かしさを感じるのではないでしょうか。いずれもが、そこに思いがあれば、ただそれでいいのだと思います。
人は、ある程度の年になると、自分に合った場所に落ち着くもので、故郷を離れる人、そのまま住み続ける人といろいろです。そして、それぞれがその腰を落ち着けた場所で日々の暮らしを営んでいくわけです。
 人は、どこに住んでいても、自分の心の中は目まぐるしく動いています。静寂な景色の中で暮らしている人も、実は心の中では様々な葛藤に悩まされているかも知れませんし、騒々しい都会という景色の中で暮らしている人が、心の静寂を保っているということもあるでしょう。
「こんなに美しいところに住んでいる人は、さぞかし、心穏やかな人ばかりでしょうね。私達、都会の騒々しい所に住んでいるのと違うでしょうね」
これは、何年か前に、旅行に行った時に、周りから聞こえてきた言葉です。自然にかこまれた美しい景色を目の前にしたら、普通に出てくる言葉かもしれません。
たしかに自然の波動に触れながら暮らす方が、あらゆる面で良い影響があると思います。しかし、心の持ちようは自分のコントロール次第です。つまり、どこに住もうが、それぞれが同じ様に、内側は、大きく揺れ動きながら、日々の暮らしを、何かを求めながら懸命に営んでいるのだと思います。都会だろうが、大自然の中だろうがです。特に今現在の人々の、その内面は、空に例えると、”天上大風”(地上は穏やかでも、上では大風が吹いている)、川に例えると、”一見何ごともなく見える川面の下に、激しく渦巻く激流がひそんでいる”(山田征著 光と影のやさしいお話P132)という感じでしょうか。
人は、見えているもののイメージ(今回は景色)で、たぶんこうだろうと決めてしまう傾向があります。でも、ふと聞こえてきた言葉から、いろいろ考えてみると、決して見た目通りのことではないのが分かります。何でもそうなのかもしれません。地球上の人間みんなが実は同じ様なことで葛藤しながら日々暮らしているのかもしれません。
改めて、この様に思い直すと、それぞれが身近に感じられ、対立よりも助け合い、争うよりも調和に意識を向けやすくなる様な気がします。
世界の様々な景色の中で暮らしを営んでいる人々の内面に、そんなに違いがないのであれば、お互い過度な恐れを抱く必要もないと思います。そう思えるならば、もっと楽に愉しくやれる様な気がしませんか。私は、どんな景色を見ても、”楽で愉しいこれから”というタイムラインに意識を置き続けようと思います。
一人一人が、嘘を見抜き、煽りに乗らず、自分軸に立ち、世界のみんなが平和に暮らせますように。

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