生き惑う

意識

生き惑う
 二月のある日のこと、これまでの自分を、なんとなく振り返ることがありました。幼い頃、保育園、小学生、中学生、高校生、浪人生、大学生、留年時、就職活動、新入社員、結婚、一度目の退社の時、再就職、三年続いた家族の他界、二度目の退職の時、そして今、というふうになんとなく振り返ることがありました。そうして気付いたのは、ずっと生き惑っていた自分でした。
私は、いつも”何か”を感じていてモヤモヤ感を抱いていたのです。その時の思いとは”何をしてるのだろう、何をしたいのだろう、何でこんなことをしなくてはならないのだろう”、
“なぜあそこではなくてここにいるのだろう”
というものでした。
それなりに日々やらなければならないことはあり、それなりに楽しいと感じることもたくさんありました。自分では喜怒哀楽がたくさんある日々を暮らして来たと思います。だけど、私の中にはいつもモヤモヤした”何か”があったのです。楽しく感じることをしてる時でも、そうではないことをしている時でも、絶えずその”何か”がいつもあったのです。
 この世には、どんなに成功した人でも、このモヤモヤした”何か”を感じている人は意外にたくさんいると思います。この世でどんなに”成功(世間一般的に、高学歴、高い地位、名誉、財産、恵まれた家庭など)”しても、そのモヤモヤを感じる人はいると思います。その様な人は、真に望んでいるものがそれら世間一般的に言われる”成功”ではなく、他に何かがあるのが分かっているからなのかもしれません。間違いなく”何か”があるのだと思います。その”何か”に気付かないとモヤモヤは無くならないのだと思います。たぶん、私達人間すべてが、その”何か”を追い求めているのだと思います。人は、それが何なのかを知りたいという意思を持ち始めると、それが分かるまでモヤモヤ感が高じていくのかもしれません。では、それは一体何でしょうか。
それは、”自分の存在そのものが何であるかが分からないこと”です。私はそれを自分なりに認識することができました。それは、自分とは”命(愛、無限意識、本質)そのもの”だということです。そして、それぞれ一人一人には他の人には替われない自分の役割があり(だからあそこではなくここにいる)、その役割を通してしっかりと本質に気付き、それそのものを生きることができる存在にならなければならない責任が一人一人にあるのだと思います。つまり、”私達人間とは、この唯一の実在である命そのものである”と認識できないと真の幸せを感じることができないのだと思います。その様に認識できないと、何となく不安を感じて何をしててもモヤモヤするのでしょう。しかし、”自分が初めからあり今もあり未来永劫ある唯一の実在である”と自覚できたらどうでしょうか。これ以上の安心感はないのではないでしょうか。
例えば、自分ではこの世のすべてを手にして幸せと思っていても、もしそれら(お金、財、地位など)が無くなったらどうでしょうか。一転、不幸と感じるのではないでしょうか。また、それらを失う不安や恐怖を持ち始めたらどうでしょうか。これらは私達人間が何かに気付く為や楽しむ為の道具として大切なものですが、あの世には一切持って行けません。なのに、それらの道具が一番大切だなどと錯覚して、それらを誰よりもたくさん手にしようとあれやこれやバタバタするなんておかしな事だと思います。そんな錯覚に陥っている時は、”人間死んだらすべて終わり、その後何も無いのならやりたい様にやろう”などと考えるのだと思います。これでは人は何をしでかしてもおかしくないのかもしれません。
 私達人間は、生きる苦しみ、老いていく苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみなどを超越しない限り、このモヤモヤ感は無くならないと思います。そして私達人間は、それを解決する答えを延々と探し続けています。それに対する答えはたくさんの聖人の方々が何度も何度も説いています。でも多くの人は、それを捉えきれてないのだと思います。でも何かのきっかけでその大切な話が自分の中でしっかり捉えられて実感できたら、そのモヤモヤは消えるのだと思います。つまり、モヤモヤ感とは、私達人間一人一人が持っている火種(本質、命)を覆っているガードの様なものです。そのガードを自らの意思と努力で取り払う責任が私達人間一人一人にはあるのだと思います。生き惑っていると感じている人は、既にその追求の真っ只中にいるのだと思います。これが、”悩めるもの幸いなり”と言われる所以なのかもしれません。そして、追求する際大切なのは、その答えを”外に求めることなかれ、内に求めよ”ということです。

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