真理に至るには命懸け

意識

真理に至るには命懸け
 今朝のNHKニュースで流れていた、ある話題が私の印象に残りました。
それは国の防衛費増額に伴い、新旧の防衛産業が部門の規模拡大と人員増を計っているというものでした。三菱重工、IHIなど昔から防衛産業を担ってきたところはもちろんのこと、新興企業や町工場も注目しているとの話をしてました。
その中で私の印象に残ったものは、大阪のある町工場の防衛部門への取り組み検討の様子でした。それは、この会社の社長とその奥さんとの、”新規参入への取り組み方をどうするか”のやりとりにありました。国の防衛費増額を聞いて、社長であるご主人は”うちでも出来ることがあるなら参入したい”ということを奥さん(おそらく役員だと思われます)に話しました。それを聞いた奥さんの反応は、「うちで作ったものが戦争で使われたら嫌やな、あかんとは言わないけど」というものでした。
私は、この問題は日々の暮らしの中で何らかの判断を迫られる時に良心を揺さぶられる事象の一つだなと感じました。社長は”会社を存続させて社員を安心させるいい機会だ”と思ったのではないでしょうか。一般的に、社長がやると決めたことに社員が反対意見や諭す様なことを言うのはなかなか難しいでしょう。これは奥さんだから言える言葉ではないかと感じました。でも、ほとんどの人の良心に照らし合わせたら、この奥さんの言葉と同じ様なものが、それぞれの心の奥底にはあるのではないかと思うのです。こんな選択に迫られた時には、”自分の生き方の思い”が現れるのではないでしょうか。その思いの結果、どの様な選択をしたとしても”良い、悪い”と裁かれることではないと思います。自分の今の思いを言葉や行為として表した結果が自分に必ず戻るということになるからです。つまり”自ら蒔いた種は自らが刈り取らなければならない”ということであり、要するに、”すべての経験、体験とは自分の成長の過程である”と思うのです。
しかし、良心を無視して防衛の名の下に人を傷つけるかもしれないことを認識しながら、仕方がないと流されて選択する人が増えたらどうなるでしょうか。もしそうならば、私は争いが増えると思います。また、奥さんの言葉の様な思いをきちんと言葉や行為として選択する人が増えたらどうなるでしょうか。その場合は、私は争いが減ると思います。

「愛であること、愛を生きること。」
どんな時でも私であること私を生きること。
この世の観念、概念で他を裁かないで生きること。
どんな時でもすべてを労り、思いやり、他を生かして生きること。

どんな時でもです。冷静に考えて本当にできるでしょうか。そんな無限の愛そのものを生きることができるでしょうか。
他に迷惑をかけることや不快に感じることを絶対にしない自信を持てるでしょうか。感情に支配されないことができるでしょうか。
みんなやってることをしないでいられるでしょうか。
良心に基づいて選択した結果、誹謗中傷されても平気でいられるでしょうか。

もしそんな生き方(愛そのものを生きる)を貫くならば頑なな人になるのではないか、または融通のきかない人と思われるのではないかと思う人もいるかもしれません。
でも、そうではないと私は思います。なぜなら、その生き方は”共存、共栄、共生という絶対調和の思い”が基にあるからです。単に撥ねつけたり迎合したりするのではありません。”すべてを労り、すべてを思いやる、他を生かす”思いが基にあるのです。

 人はそれぞれ自由に思い、語り、表現していいと思います。実は今までもずっとそうしてきました。なぜなら最後の選択は自分で下しているからです。私のこれらの意見に反発する方もいると思いますが、あえて言うと、強制されたことでも従ってしまったら受け入れる選択をしたということになります。だから命懸けになることもあるのだと思います。お互いが自分の思いを無理やり押し通そうとしたら、時には争いになります。だから労り思いやり他を生かす思いが大切なんだと思います。調和です。与えて生きることです。
因みに、強制した人は必ずいつかどこかで(今生でなければいずれかの転生で)同じ目に遭います。カルマの刈り取りです。私達人間は、殺したものは殺される、殺されたものは殺し返すを繰り返してきたのかもしれません。間違ったカルマの刈り取り方だと思います。断ち切るには己の思いをいかに変えるかだと思います。そしてその思いを元に何を選択するかです。その一人一人の選択の結果が地球の現状ではないでしょうか。だとすれば誰彼のせいではなくて一人一人の責任ということになります。ならば、一人一人が愛の思いで生きたならどうなるでしょうか。その思いとは、”労り思いやり他を生かす”という思いです。そう選択する人が増えたら、より自由になり、もっと楽しい地球になるのではないでしょうか。
本来人間には上も下も、偉いも偉くないも、特別なのもありません。つまり分離、差別など無いということです。一人一人の中からこの意識がなくならない限り争いはなくならないということだと思います。
また、他人にこう思いなさいと強制することはできません。たとえ強制しても、その人は腹の底からそうはなりません。だから私達人間は一人一人が自ら愛ある生き方とはどういうものなのかを追求するしかないのです。何度も繰り返して言いますが、それを私は”労り思いやり他を生かすこと”だと認識しています。
繰り返しになりますが、もし、今の地球でその生き方を貫くならば、誹謗中傷、時には身体的危険に晒されることになるかもしれません。ある観念や概念を信じている人が多ければ、それからズレたら変な人とされてしまうからです。邪魔者とされてしまうかもしれません。愛ある生き方を貫いた結果殺されるかもしれません。実際ある聖人はそうなりました。それもある視点から見れば、貫いた結果他人に殺すものは殺されるというカルマを負わせることになってしまったとも見ることができるかもしれません。こんなことを言うと反発されるかもしれませんが、この聖人は殺すよりは殺される方がまだましと言ったそうです。確認のしようがないので”そうです”と言うしかありません。
いずれにしても、「労り、思いやり、すべてを生かして生きる」という思いが、とても大事なことだと思うのです。こんなあたりまえで簡単に思えることが私達人間はずっとできずにいるのかもしれません。私達人間が今生生きている理由の一つには己の意識を変えることがあるのだと思います。私も己の意識を少しでも完全愛に近くなる様日々努力していきたいと思います。

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