自分の領域にあるもの
昔から、お酒は、いろいろな解釈をされてきました。ときには、”気狂い水”と言われたり、”百薬の長”と言われたり、”人間関係の潤滑油”などと、いろいろと、その人の都合の良い様に呼ばれてきました。たしかに、私も、
“気狂い水”となってしまう人を、たくさん見てきました。暴れたり、泣いたりで、いわゆるお酒に飲まれるという人です。でも私は、そういう人は、その様にお酒を扱っているのだと思います。どうなるのか分かっているはずですから。それでも飲むという判断をしたということです。だから、それなりのことになるのです。
また、”百薬の長”と感じたこともあります。肩こりがひどい時、一合だけ飲んだら治ったこともありました。血行が良くなったのですね。
もう一つの”潤滑油の役割”については、私が会社勤めの時に、特にそれを感じました。普段無口の人の意外な面を見て、チームのまとまりが良くなったことがありました。
これらのことは、人が、お酒を、その時の目的を引き出す為の道具としているのだと思います。その時に散りばめられているのは、何かへの気付きのヒントです。お酒そのものの本質はどの場面でも同じです。それを使うことで、その人となりがでるということでもあります。何でもそうなのかもしれません。鉛筆の使い方も、どの長さまで使うか、丁寧に使う人、雑に使う人、様々です。引き戸の開け方や閉め方にもその人となりがでます。ガラッと開けたり、バンっと閉めたりする人もいます。ものに対する気持ちがでます。
私は、”残心”という言葉が好きです。簡単に言うと、そのものに対する思いやりの様な心持ちだと思います。場の雰囲気や、そのものに対する気持ちが、所作に出るのです。だから、美しい所作をする人は、それなりの気持ちを表していることが多いのだと思います。
ものは、愛されもし、嫌われもし、存在自体が悪みたいにされてしまうこともあると思います。ある一つのものに対する、その扱い方を見るだけで、人は、いかに様々な解釈をしているかが分かります。その解釈をしているその瞬間の自分というのが、まさに自分の意識状態そのものなのだと思います。
私も、部屋の本棚を長いこと使っているのですが、邪魔だなと感じることもあります。重宝したり、邪魔扱いしたり、本棚はただ本棚というだけなのにです。つまり、私の都合が変わったということです。たまに、この様な正反対の解釈をしている自分に気づかない場合もあります。人間とは、勝手なものなのですね。
でも、私はもう必要ないと感じたら、感謝して処分します。ある変化が訪れた、そういうタイミングだということです。つまり、自分の領域にあるものとは、自分が、何かに気付くまで存在し続けるのかもしれません。お酒に飲まれない様にすることや、あるものを使うことによる所作のあり方や、ものを大事にしなかったり、丁寧に使わないことでどんな影響がでるのかなど、少し意識するだけで、私達の周りには気付きのヒントがたくさんあるのだと思います。
自分の領域にものがたくさんある人は、それだけ何かに気付きましょうということなのかもしれません。良い悪いということではありません。自分に必要だから、というだけのことです。必要がなくなったら、興味もなくなり、自分の領域から消えていく様な気がします。本当に生きていくのに、必要最低限のものだけになる様な気がします。そして、その時の自分が心地良く感じられる姿に、自分の領域が変化していくのだと思います。ただそうなだけなのかもしれません。
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