意識

 「富は成長を止める薊である」 
 
 これはある聖人が言った言葉だそうです。富とはこの世のお金や物や権力、社会的地位などのことです。成長とは魂、または意識を無限、完全、つまり神意識にいかに近づけることができるかということです。この一番大切な私達人間の生きる目的を迷わせること、成長を阻害する可能性が高い富のことを喩えて薊(あざみ)と言っています。それが良いとか、悪いとか、そういうことを言っているのではありません。富が人間の本来の生きる目的を見失わせ、進むべき道を迷わせる可能性の高さを言っています。要するに肝心なことは、一人一人がどういう意識で富を使うかなのです。
たしかに、物質的にもお金にも何不自由のない毎日を過ごしていたら、気持ちは穏やかで楽しくおかしく過ごせるかもしれません。多くの人は、これでいいと満足して一人生を終えるのかもしれません。しかし、その様に物質的に満たされ、また、友人、知人がたくさんいたとしても、いつも”何か”に満たされない思いを持つ人も多々いるのではないでしょうか。
その”何か”を私達人間は長い間探し続けているのだと思います。それを見つける歩み方は一人一人違います。そして、自分でその”何か”に気付かなくてはなりません。誰かに気付かせてもらうことはできません。気付きのヒントやアドバイスなどを受けることはできると思います。
自ら気付く為には、そうしようという意志を持ち、目の前のことに耐え、前に進む勇気を持ち、それらを続ける努力が大切です。それが何であるかに気付いた人は、今生がいかに大切なものなのか、また努力する時間があまり残されていないことに気付くと思います。そして、何をさて置いても”何か”の追求が一番大切という生き方になると思います。
繰り返しますが、私は富が悪いと言いたいのではありません。むしろ、すべての道具(肉体、お金、地位、様々な物など)は大切に使うべきものだと思っています。大切なのは、それらを我欲を満たす為に使うか、それともすべての喜び幸せの為に使うか、つまり自分の思いをどこに置くのかがとても大切なことだと思うのです。それぞれ一人一人が、一瞬一瞬どの様な思いを持って存在しているかで地球のあり方が決まるのだと思います。
私達人間は、物質的満足状態が継続すると”何か”を追求することをしなくなるか、または、追求することを怠けてしまうか、または、最悪な場合、完全に忘れてしまうのではないかと感じます。ある聖人は、「”何か”を忘れる罰を与えられるくらいなら、いっそ私をこの世から消滅してください」と言ったそうです。
それほど大切な”何か”とは何でしょうか。
上にも記しましたが、それは私達人間のこの世に生きる一番大切な目的である”自らの本質に目醒める”ということです。
要するに富というものは、私達人間が今生生きるうえで一番大切な目的を忘れさせてしまう非常に強い誘惑だということです。誘惑されると、手段が目的に取って代わります。
そんなものを(手段に過ぎないもので死んであの世に持っていけないもの)いくら集めても、それは本来の目的を追いかけているということにはなりません。影、幻、仮想を集めまくっている様なもので、そんなことをいくらやっても満足せず、いずれ精神的負担になったり、それら(富、お金、家、地位など)を維持する為に貴重な時間が奪われることになると思います。
例えば、自分がお金、地位、学歴、権力を思いのまま持った時どの様な意識になるのかと考えてみると分かりやすいかもしれません。たぶん多くの人は、他人に対して優越感を持ったり、見下したりしてしまう意識になるかもしれないと感じるのではないでしょうか。逆に劣等感や誰かを崇拝することなども分離感から来るのです。
それらの意識が迷いの度を増すと、差別という分離感になり、争いを招き、ついには戦争に至るのではないでしょうか。現に人間は男女、人種、国籍、職業、学歴、地位、住んでいる地域など、あらゆることで差別したり、それが元で小競り合いになったり、ついには戦争で大量殺戮までするということの繰り返しを長年続けて来ています。このことは誰も否定できないと思います。現に今やってますし、それを煽りお金儲けに使う人までいます。他人を苦しめ、さらには殺してまでお金儲けをするのです。絶対法則、”殺すものは殺される”であるにもかかわらず、その法則を知らないが故にそんなことをするのでしょう。
この様に、自分の心の中に分離意識が少しでもあると必ず争いに至るということです。そして分離感を少しでも持つ間は、絶対に至福を味わうことはできないと多くの聖人は言います。なぜなら、愛一元の境地(ここに至るのが生きる目的)に融合できないからです。
要するに、私達人間は本質からズレると苦しくなるということです。不安、恐怖、苦しみを感じているのなら、それは本質からズレているということです。
それでは、私達人間はどの様に生きればいいのでょうか。一つ挙げるとすれば、それは、
「愛するは愛されるよりも美しくすべてを幸せにする」(上江洲義秀)という生き方です。
この言葉の意味を深く深く考えてみると、その”何か”が見えてくると思います。今、自分がここにいることには何か大切な意味があるのです。今いる所で、私(本質の私)であること、私(本質の私)を生きることができるでしょうか。それができたら愛一元の境地に融合し、すべての悩みなどから解放され、至福を味わえるのだと思います。

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