裁くということ

意識

裁くということ
 私達は、毎日、あまり意識せずに、誰かを裁いています。自分の観念や概念を基準に、これはいけない、あれはダメ、この人は間違っている、あの人は万死に値するなど、いろいろな場面で裁きまくっているのではないでしょうか。そういう時の自分の気持ちは、怒りや、何とかしたいという焦りや、なんとか罰したいとか、やっつけたいなどの気持ちを抱いていて、たぶん、重苦しいものを感じていると思います。また、それらの思いが高じると、それが憎悪までいってしまう人もいるでしょう。自分では平和にしたいという思いのはずが、対立の構図を描くことになっているのかもしれません。もしそうなら本末転倒です。平和にしたいと思っているのに、なぜ心がこんなにも辛いのだろうと感じることがあるのではないでしょうか。他を責めることによって、心の中が、対立構造から生まれるネガティブな思いに満たされてしまうからです。少なくともいい気持ちではないと思います。次第に重苦しく感じられ、不調和な想念で心が満たされてしまいます。そうして、心の中に新たなネガティブな種を植え続けてしまうかもしれません。その種は、いつか必ず発芽します。そして、その結果がどの様なものでも、自ら刈り取らなくてはなりません。
 人は、一人一人自由意思を与えられています。自由意志があることを否定する人はいないと思います。私も含めて、人は毎日思いたい放題しています。誰かからこうしなさいと言われても、面従腹背ということも非常に多いのではないでしょうか。面倒だから、とりあえず、ハイと言っておこうなどとやっていると思います。
この一人一人の自由意志は尊重されなくてはなりません。何を選択するかは自由です。だから、心が伴わないと、逆に対立や混乱を招くのです。それぞれが思いたい放題、言いたい放題、やりたい放題をしたら、混乱するのは当然なのではないでしょうか。それは、今の世界の実情を見たら誰もが納得すると思います。混乱の極み、末法の世と言えるかもしれません。
人は、意識レベルに応じて、思いは異なり、それに伴う言葉や行為も異なります。つまり、その人の言葉や行為をよく見てみると、ある程度、その人の思いが分かるということです。継続して見てみると、その人の意識レベル(他人と比べて高い、低いを言っているのではなく、その人自身の意識の置き場所という意味です)が分かると思います。でも、直接その人の波動を感じる方が正確かもしれません。
 私達人間はなぜ他人を裁くのでしょうか。それぞれが自由意志を持ち、それはお互いに尊重しなければなりません。それなのに、自分の観念や概念を基準にして、他の人を”人として間違っている”とか、”それをしないと誰かに迷惑をかける”などの理由で、あなたは間違っている、だからこうした方がいいとか、こうしなさいなどと強制的な言動をしたり、エスカレートすると実力行使までする人がいます。この様に、私達人間は、日々の暮らしで、実に様々なことで他人を裁きまくっています。もしかしたら、この裁くということが、私達人間全員に共通する”思い癖”であり、解決すべき課題、宿題の一つなのかもしれません。私達人間は、自分が裁かれるのが嫌なのに、他人に対しては、思い、言葉、行為で、裁きたい放題しているのではないでしょうか。この様な状況が続いたら、あらゆるところで、対立が生じるのは当然だと思います。その結果が、今の世界です。
では、その課題を解決するにはどうしたらいいのでしょうか。一つには、”私はこう思います、あなたはどう思いますか”というスタンスを基本にすることです。そのスタンスを活かせる場として、物事を進める際の、相談や会議やミーティングがあります。それは対立するためにするのではありません。前に進むためにします。その様な場では、それぞれの思いを聞いて、そのバランスを取る様にするのが本来のあり方だと思います。その様な場で何度もそのスタンスを意識して繰り返せば、次第に身につくのではないでしょうか。それでは、その様な場で、なぜ、怒ったり、怒鳴ったり、他人を詰める様なことをする人がいるのでしょうか。それは、何としてでも自分の思いを通す為です。その様なことをする人の頭の中には、他人の自由意志の尊重などはありません。また、なぜ事を急かすのでしょうか。”急いては事を仕損じる”という諺があるのにです。たぶんそれは、”スピード感を持ってやらないと誰かに出し抜かれるから”というのがそのほとんどの理由でしょう。限られたパイを出来るだけ取りまくれということです。そこに共存、共栄、共生の思いは感じられるでしょうか。私が感じるのは、”なんとしてでも、誰よりも先んじて勝つ”という思いです。そしてこれも無理に推し進めるならば、独占支配が視野に入り始め、他人に強制を強いることになる側面を持つのではないでしょうか。やはり、自由意志の尊重という思いは欠落していると思います。
自分の自由意志を侵されるのは嫌がるのに、他人の自由意志は意外に平気で侵しているのが、今までの私達人間なのかもしれません。この様なところに意識を置き続けていたら、対立は無くならないと思います。
 私は、人間は、そろそろ本気で、”調和的に生きる”ということを真剣に考えざるを得ない時期に来ているのだと感じています。もうこれ以上、地球が持ちこたえられないかもしれないと感じるからです。私達人間が、今まで繰り返してきた、思いたい放題、言いたい放題、やりたい放題の結果、不調和な想念が地球に蔓延してしまい、地球を限界まで痛めつけてしまったのだと感じています。この有り様を見て、誰が悪い、何が悪いと外ばかり見て、責めたり裁いたりしていると、対立が絶えず、不調和な想念に満たされて、地球は今の様な結果になってしまうということが、私達人間は、もう十分に分かったのではないでしょうか。想定される最悪の結果を変えるには、誰かを変えるのではなくて、自分が変わらなければならないということに気付くかどうかが重要です。一人一人が、自分の内側を見つめ、自分の心を調和的思いに変えようとする人が増えれば、必ず平和になると思います。他人を変えることはできないからです。私達人間は、なぜここにいるのか、何のために生きているのか、それを深く考えることが大切だと思います。そして、答えは外にあるのではなく、内にあると気付けるかどうかが大事なことだと思います。繰り返しますが、一人一人の思いが変わらなければ、何も変わらないと思います。
 私達人間にとって、今生を生きる上で、一番重要なことは、”責任を持って、自分を変えること”なのではないでしょうか。外を見て誰かを裁くのではなく、内を見て自分の意識をどこに置くかが重要です。誰かを裁くというところに向けている意識を、調和的なところへ置き変える人が一人でも増えることを祈りたいと思います。

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