評価

意識

評価
 何の為にあるのでしょうか。私の時代は、学校では、テストの点数で順番を付けて、生活態度で優劣を付けて、内申書などが作成されました。この内申書が受験する高校に送られ、テストの点数と合わせて評価されたと聞いています。テストの点数が良くても、内申書が悪ければ落ちるかもしれない、と言われました。こんな事を言われたら、学校や先生の言うことは、とりあえず聞いておいた方が良いとなります。恐れが動機になってしまいます。
会社では、目標数字、ノルマに対する達成度や新規のお客様を何件作ったか、対人関係、接客態度、その他の貢献度、時間の使い方、リーダーシップがあるか、などたくさんの項目がありました。この中で特に大事にされていたのは、会社の方向性にどれだけ合っているか、つまり忠誠心があるかどうかだと思います。その評価が悪いと、給料やボーナスに大きな影響がでます。そんなに下がるなら、これはまずいとなって、とりあえず言うことを聞いておいた方が良いとなります。当然と言えば当然かもしれませんが、やはり、恐れが動機になってしまいます。
会社の方向性は、経済界や政治家、官僚からの要請という、指示、命令に沿ったもの、さらにその上のWEFなどの計画を見て、というよりも強制で決まります。細かな所は比較的自由ですが、方向性は誰かが決めたものによって、推し進められます。上場企業の社長、首相、大臣、官僚ですら、なぜか逆らえません。この様なことが実態なのです。
 人間は、何を考えようが、しようが自由です。自由意思と選択の自由があります。だから、今話した実態に賛同して、またはよく分からないで、日々暮らすのも、反対に、それとは違うやり方で暮らすのもどちらもその人の自由です。しかし、人間は弱いですから、何かしらの恐れを抱いてしまうと、嫌々従ってしまいがちです。忍び難きを忍び、耐え難きを耐えなどの言葉が必要以上に自分を納得させるために使われてしまいます。忍び難きは忍ばなくていいし、耐え難きは耐えなくていいと思います。無理しない方がいろんな面で変なことしないし、精神階層にとっても好影響を及ぼします。やった方がいいのは、自分の心に従うことと、他との調和だと思います。
 評価とは、一般的に他人からのものと思っている人が多いのではないでしょうか。私が会社員のときに「俺は、給料とか、お金というよりも、いかに評価されるかの方が大切だ」と自信満々に言った人がいました。そして、その方は、支店長、役員と順調に進んでいきました。この人の意思と選択ですから、良いも悪いもありません。ただ、私は何年も前のこの言葉が記憶に残ったのです。私には違和感としてです。
私にとっての評価とは、基本的に、他人からのものよりも、自分の本心に沿ってやれているのか、または、やったかにあります。自分で自分を評価する基準はそこにあります。本当はどうなの、というものです。これだと、心が軽くなります。気持ちが良いのです。だから、そうしています。会社員の時も基本的にそうでした。他人評価が凄く良い時と最悪に悪いという時がありました。でも、落ち込むほど気にはならなかったのです。そして、昨年は、会社方針が耐え難いほどに受け入れられないものになってきたので、退社することにしたというわけです。コロナ騒動、ワクチン詐欺、SDGsど真ん中推進などは、私にはとても受け入れられないものでした。私には、今回の、不特定多数の方から、資金を集めてGAVIに送るという”ワクチン債”などは、お客様に販売できるものではありませんでした。この実態を目の当たりにして、本当に、今の世界は、この様なシステムに出来上がっているのだなと確信しました。
要は、評価とは、軸を他人に置くか、自分に置くか、どちらにするかということです。それは、その人の自由です。他人に置けば、事象の変化に伴い、あっちにいったり、こっちにいったりします。自分に置けば、事象の変化で、ふらふらしません。さらに、本当の自分を思い出すことに繋がると思います。この点が一番大切なことだと感じます。
この様に考えると、今まで思っていた、”評価”ということに対する見方が少し変わると思います。どんな時でも、自分の違和感を押し込めず、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びなどということは、無理してやらないで、自分の心に従い、他との調整、調和に視点を置いた方が、自分にも嘘をつかずに日々暮らせるのではないでしょうか。
私は、最近、日々いろんな概念が、今までとは異なり、愛と調和に沿ったものに、近づいて来ているように思います。それに気づいた時は、なんだか幸せだなと思います。

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