説得と祈り

意識

説得と祈り
 世の中には、ある事象に対して、何人もの人が、同じ様な見解を話していることがよくあります。しかし、そんな同じ様な見解は、話している人が、どの様な人かによって、受け取られ方が変わります。例えば、自分が好きな人が言っている場合と、嫌いな人が言っている場合では、受け取り方は違うと思います。社会的地位、有名無名の違い、その道の権威とされているか、いないかの違い、年齢の違い、男性、女性の別など、何かしら、偏見の様なものが入ることがあるのではないでしょうか。この様な事は、情報の取り方、その受け止め方を左右する一つのやり方としてMSM等は意図的に使用します。
 人は、何か気になる事や、解決法を探す場合や、特に今だったら、ウクライナの件などを知るために、テレビを見たり、本を探したり、ネットで情報を探したり、いろいろすると思います。そして、初めに聞いた話を信じてしまう傾向がある人は、意外に多いと感じます。また、初めの情報に、少し疑問を感じて、他を探す人もたくさんいると思います。また、両方の言い分を聞いたり、歴史的背景を調べたり、自分なりに違和感が無くなるまで調べる人は、意外に少ない様に感じます。
私の周りには、テレビの情報や、初めに聞いた話を信じきっている人が、非常にたくさんいます。私が、こういう見方もありますよと話そうとしても、頑として受け入れようとしません。怒る人もいます。別に、私の意見を受け入れて下さいと言っている訳ではないのですが、テレビでIさんも言ってたから間違いないという感じで終わります。でもこれは、それぞれの判断なので、私は、それはそれで構わないと思います。
しかし、余計なお節介になりますが、あまり何でもすぐに受け入れてしまうと、危ないと思うのです。その様な人は忙しすぎるのか、ただ、考えるのが面倒くさいのか、どうなんでしょう、違和感も感じないのかなあと思ってしまうのです。
 昨日も書きましたが、世の中には、不届き者が実際にいますから、プロテクトは大事だと思うのです。でも、私は、あまりしつこく言ったり、説得する様な事はしません。その人の大切な学びを、邪魔することにもなると思うからです。ただ、身内には、たまに説得を試みます。そのほとんどは、大抵巧く行きません。私は本当に信用がないなあと少し落ち込みますが、でも仕方がないです。身内と言えども、別人格ですから、自由意思と選択の自由があります。でも、危険が伴う事や、命に関わる事の場合には、物凄く葛藤して、思い悩みます。ある程度やって、ダメだったら、そこで一旦引きます。そして、タイミングを待ちます。それが間に合わない場合は、自分の中の最高レベルのお祈りをします。私には、もうそれしかできないです。
これを聞いたら、人によっては、「何ですかそれは、祈りで何か変わるのですか」と思うのではないでしょうか。しかし、本当に効いたと感じたことが複数回あるのです。
 これから話すのは、以前書いた「フォーカスするところ」の中で、いつか話しますと言ったことです。今から約33年前のことです。
ある人から、夜遅くに電話で呼び出されました。ちょっと助けて欲しいとのことだったので、すぐにその人の家に行きました。そうしたら、夫婦喧嘩の真っ最中で、奥さんの方は大暴れしていました。私はご主人を外に出して、奥さんを落ち着かせようと、いろいろ話したり、なだめたり、手を尽くしました。少しまずいなと思ったのは、彼女は、酔っていて、包丁を手に持っていたのです。それで何度か自分の手首を刺そうとしたのですが、私は、本気ではやらないなと感じたので、なんとか包丁は奪い、隠すことが出来ました。それからは、もうどうしていいか分からないので、うなだれたり、立ったりしている彼女をじっと見て、「眠くなります様に」としばらく祈っていました。そうしたら、あれだけ暴れたり、怒鳴ったり、手首を何度も刺そうとしたり、立ったり、座ったり、うろうろしてた彼女が、急に寝室に入っていき、そのままぐっすりと寝てしまったのです。ただ暴れ疲れて眠くなったのだろうとも思いましたが、彼女の様子が急に変わったのです。前を見据えて、何かに引っ張られる様に部屋へ入っていき、別人の様に静かになってそのまま寝てしまったのです。その時の私は、今と違い、スピリチュアルなものを避けていましたから、自分でも、なぜ、お祈りなどしたのか、よく分かりませんでした。それが、なぜか本気でやっていたのです。そして、その直後の彼女の様子を見て驚いたのです。説明が難しいのですが、あんな人間の変化と雰囲気をそれまで見たことがありませんでした。この事もしばらく忘れていたのですが、先日突然思い出して、不思議な光景だったなあと改めて思いました。今の私は、スピリチュアルを信じていますから、あれは、やはり、”祈りの力”だと確信しています。よく考えてみたら、包丁を持って暴れている人がいて、自分の手首を刺そうとしている現場にいて、あまり慌てもせず、比較的冷静に、これしかないと自然にお祈りをするなんて、普通は、あまりしない事だと思います。普通は、自分が刺されるとか思って、慌てるだろうし、逃げるかもしれないし、警察呼んだり、殴って包丁を取り上げようとするかもしれません。一体、あの空間は何だったのだろうと思います。いずれにしても、大事にならなくて良かったと思います。
 私は、ある事象があり、その情報の取り方と受け止め方はいろいろあって、然るべきだと思います。しかし、世界は、まだ、”力こそ正義”という論理で動いています。だから、自らが、身を守るために、情報を取り、それをどの様に受け止めて、実際にどの様に行動するのかが非常に大切だと思います。不届き者(MSMなど)の言うことに流されてしまう人も実際にいます。やはり、その人達を見てると少し心配になるのです。集合意識に多大な影響を及ぼすからです。一人一人は自由意思を持ち、選択の自由もあり、これは誰もが尊重されなければならない基本です。だから、調和を取るのが難しいのかもしれませんが、調和の取れた地球にしていくには、ある程度の説得が必要なときもあるのかもしれません。強制は許されません。だとしたら、あとは、祈る力を使うしかないのかもしれません。私は、自主性を持ってやる人が一人でも増えれば、地球が変わると、本気で思います。





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