責任を持って自分を変える

意識

責任を持って自分を変える
 私は、世界中のほとんどの人は、平和に、家族や友人、仲間達と楽しく暮らしたいと考えていると思っています。しかし、現実を見てみると、その様に普段考えている人達も、ちょっとしたことや、政治、経済、宗教、人種などをめぐり、喧嘩、争い、怒り、嫉妬などの思いを巡らし、その結果長い間に渡って戦争を繰り返しています。なぜなのでしょうか。その大きな理由の一つに挙げられるのが、煽る人(一部の王族、皇族、特権階級、手下のMSMなど)がいて、それに乗ってしまっているという構図がずっと続いていることだと思います。そんな構図に対して、私も含めて、自分はどうなのか、一度冷静に見つめて見るとハッと気付くことが必ずあると思います。自分で全く気付かないうちに、なんとなく加担している結果になっていた、などということもあるのではないでしょうか。異論はあると思いますが、畏れ敬い、何がなんでも傅かなくてはいけない人など本当にいるのでしょうか。私は特別などという人はいないと確信しています。私達は、長い間、いろいろなことに洗脳されてきたのかもしれません。これからは、本来の姿に戻る為の大掃除が始まるのだと思います。
 人は、基本的に、家族、友人、仲間などは大切にすると思います。しかし、そのグループの中でも、ある事に対して意見が違ったりすると、その時に同じ意見を持っている人同士が組んだりして、争ったり、自分達の意見を無理矢理にでも押し通そうとしたりする人がいます。大抵は、争う前に話し合いをすると思いますが、話し合いとは、一人一人の意見を聞いて、それらの調和を図るためのものです。この基本的スタンスを共有して、話し合いをする努力が非常に大切なことになります。しかし、どうしてもそのスタンスを取ろうとしない人や、多様な意見を聞こうとしない人がいる場合も非常に多いのではないでしょうか。様々な会議を冷静に見てみたら、上意下達で終わっていることが多くはないですか。肩書きや権力を持っている人達などは、自分に都合が悪い意見に対し、怒り始めたりして場の雰囲気を変えてしまうことが多い様な気がします。また、ここぞとばかりに、その様な権力者に同調して、高圧的に自分達の意見を通そうとする人も出てくることもあります。何度やっても同じ姿勢の人というのはいるものです。これは、意識レベル(相対比較で高い、低いではなく、その人がどこまで神性意識に近付いているかということ)の違いがありますから、どうしようもないのかもしれません。誰もが、ある話には絶対に聞く耳を持とうとしない人に出会った経験はあると思います。例えが適切かどうかは分かりませんが、幼稚園児に大学生の教科書を読んで理解しなさいと言ったら、その幼稚園児は、困って、泣き出したり、暴れたりしてしまうかもしれません。だから、この様な人に対しては、なるべく見守ったり、場合によっては、こちらから離れたりした方が良いのかもしれません。説明を試みたりしても反発するでしょうし、ましてや、こちらから変に同意などしなくていいのです。はっきり言うと、調和的生き方に意識を向けられないのか、向けないのかだと思います。だから、この様な権力志向の強い人は、調和的スタンスに意識を向けられるまでには、まだまだ多くの学びを経験しなくてはならない人なのかもしれません。私達は、それを無理矢理変えようとしても上手くいかないし、そうすることは許されないのだと思います。自由意志の尊重です。つまり私達人間は、”自分で自分の意識をどこに置くか”が大切だということです。
私達人間は、障害にぶつかったり、罵倒されたりして、落ち込んだりすることはよくあることだと思います。この時に気を付けたいことは、その落ち込むということに意識を、どれだけの時間置くかです。瞬間なのか数秒、数分、数時間、または、一日中、それとも一週間、一ヶ月、もっとという人もいるかもしれません。どれだけそこに意識を置くかは自由意志です。ただし、長ければ長いほど、それだけ切り替えも遅くなります。落ち込みの波動を纏いますから、解決策を得られず、望む現実からは遠くなります。つまり、切り替えを出来るだけ早くした方が前に進めるということになります。自分の意識コントロールは自在にできますが、他人の意識コントロールはできません。この事実からすると、もし私達が平和を望むのであれば、一人一人が”責任を持って”、自分の意識を変えなければならないということになります。だから、何々のせい、誰々のせいなどとしている世の中であるうちは、絶対に平和な世の中にはならないということだと思います。
 私も、なんとか話し合いをしたいと思う人がいます。身内にもいます。しかし、特定の話題になると怒り出し、そこで終わらざるを得なくなるのです。その話題を説明しようとすると、激情して大暴れする様子をみせるのです。何度かタイミングをみて、説明をしようと試しましたがダメでした。だから、様子を見ることにしました。心配ですが、どうなってもその人の選択、自由意志です。その意志を認めなくてはなりません。これからどうなっても、それは、その人に必要なことなのかもしれません。だから、私は、祈りで愛を送ることにしました。祈りというのは、本当に効きます。
ここまで、いろいろ見てきて、人は他人を変えることはできないということが分かると思います。無理にそうすることも許されないということです。つまり、自分で、ある事に対して、この様にしたいという思いがあるならば、例えば、平和にしたいという思いがあるのなら、自分の意識を”責任を持って”変えなければならないということです。誰かを責めて、裁いているうちは、何も変わらないのだと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました