錯覚と自覚

意識

錯覚と自覚
 「支持者の数は、あなたにとって大した意味はありません。ヒトラーには数百万の支持者がいましたが、イエス・キリストは、12人の支持者でした」
この世には、錯覚してても気付かないまま信用し続けてしまうことが沢山あります。上記の言葉はテレグラムに載っていたものです。この言葉は、私の印象に残りました。自分にとって大切なものは何でしょうか。
 テレビ、ブログ、you tube、Twitterなどでは、視聴率やフォロワー数の多いものが注目を集め、もてはやされたりしています。それらを個人的に見て楽しむのはいいと思います。しかし、現実問題として、その視聴率やフォロワー数が捏造されているとの見方もあります。実際に見てみると、何を言いたいのか、何を訴えたいのかが非常に分かりにくいものが、視聴率上位だったり、フォロワー数が短期間で何百万にもなったりしています。ある日突然その様なものが登場するのです。何か違和感を感じます。
 日本では、七月に選挙があります。かなりの人が立候補するようで、ポスターを貼る枠が足りなくなって増設するみたいです。複数政党から元タレントなどの有名人が立候補する様です。政党のその動機は何でしょう。イメージ作戦もあるのかもしれません。
また、大群衆を集めて新風を吹き込んでくれるかのような期待を掻き立てる演説をして、それをテレビではなくて、ネットの世界で盛り上がっている新党が出てきました。この様な期待させる新党も、毎回毎回、定期的に突然出てきて、なぜか短期間で有名になるのです。何か違和感を感じます。
私が、これらの政党や政治家の言葉や行動を見ていて感じるのは、相手に対する優しさや思いやりや調和的なところなどが感じられないことや、お互いに協力できるところがあるのに、それは置いといて、互いに攻撃し合うことに視点を置いている様に見える政党や政治家がほとんどではないかということです。なぜ、政党や政治家はこんなことばかりしているのでしょうか。ずっとこのやり方ばかりしてますが、私達一般庶民にとって、何か具体的な恩恵はあるのでしょうか。政治家どうしで、「皆さん、この政党はこんなことをしています、だから日本は大変なことになりますよ、私達はそれをなんとしてでも阻止します」などと、こんなことばかりお互いにやっています。もしかしてパフォーマンスなのかなと思ってしまいます。つまり、結論は最初から決まっていて、とりあえず侃侃諤諤きちんと議論をしましたが、こうなっちゃいました、ということにしたいのか、何かしらの嘘が透けて見えるのです。ほとんどの政治家に対する資金の出どころがどこなのか、そのトップは誰なのかが分かれば何か見えるかもしれません。もしかしたら、ほとんどの政治家はその表に出てこないトップ達の雇った役者かもしれません。
 自分にとって大切なものは何でしょうか。また、やりたいことは何でしょうか。それは一人一人違うことなのだと思いますが、多くの人は、その一人一人の大切なことや、やりたいことを誰にも邪魔されずにきちんと自分のペースでできているでしょうか。なかなかできていない様に感じます。しかし、本来なら、それらのことはきちんとできるはずなのです。それを邪魔するものが、様々な規制というものです。それらの規制は、私達がよく分からないうちに、ほぼ勝手に法制化されています。それらは、いきなりテレビで、これからはこうなります、と報道されたりするのです。それらの法律が決まるまでのプロセスなどはまったく報道しないことがあります。一番大事なことは、どこかの誰かに都合が悪いのか、国民にあまり知らされずに決められてしまってきているのです。そんなことをしているのが、今までの、今もそうですが、政党や政治家なのです。それを、多くの人が、ああ、そうなんだといって従っているのが現実です。それは、自らの立ち位置の境界線を狭めているのと一緒なのです。そのうちに立つことにも条件や許可が必要になるかもしれません。その様な訳のわからない代物を、自分でよく調べてみたり、考えてみたりしないで、なんとなく受け入れてはいないでしょうか。「世の中の動きなんだから仕方がない」というセリフに黙らされてはいないですか。自分で何かしらの違和感を感じるなら、黙って従う必要はありません。
 これから私達は、自分が、真我で生きているのか、偽我で生きているのかの違いで、行き先がまったく変わります。真我で生きるとは、やさしく、愛に溢れ、互いに思いやり、他人に強制することなく、自分の好きなことをきちんと出来ていること、つまり、他を生かして生きるという調和的なものです。一方で、偽我で生きるとは、利己的で、他を引き摺り下ろしてでも、欲しいものを手に入れようとしたり、他に強制的であり、目的を果たすためには、他を殺してでも生きるという不調和的なものです。この不調和的な選択をして生きている人達の姿が、この二、三年で表に現われてきています。なぜならば、地球や人々の波動が上がってきているので、それについていけない低い波動である不調和的なものが隠せなくなってきているからなのだと思います。
では、私達はどうすればいいのでしょうか。
まず、自分の目の前にある、日々の生活の一つ一つのことに対して、すべてのものから学ぶという姿勢を忘れないことです。目を逸らさず、しっかりと見据えて、対処していくことです。そのときに他を生かすなどの思いや言葉や行為ができる様に意識することです。それが飾りではなく自然にできる様になるには、自分の本質をはっきりと把握できるまで自分を見つめる努力をすることです。それをすれば、次第に、思い、言葉、行為が飾りではなくなっていきます。飾りで良い人を演じても、疲れるだけですし、それは嘘です。放たれる波動でバレます。その様に上辺だけ繕っても、大元はすべてお見通しです。もっと言うと、肉体の自分が本当ではなくて、命(愛、エネルギー、無限、完全意識)が本当の自分であるとはっきり気付くかどうかです。だから、今世界で変なことをしている人達に視点を合わせて、分断意識や差別意識などを持っている場合ではないのです。そんな影の事象に時間を割くのではなく、自分の内側に深く視点を持っていき、本質に気付くことが一番大切だと思います。世界中で変なことをしている有名人や肩書きだらけの人やその手下の人達は、いわゆる愛の欠乏症というものです。本質を見失っているから、周りは愛に満たされていることに気付かず、満たされ感が無いのです。それ故に、もっともっとくれと、物やお金や権力を欲しがるのです。だから、私達は、その様な人達に、”そちらではないですよ”ということで、祈りで愛を送りましょう。下手に関わらなくてもいいし、それが一番効果のあるやり方だと思います。それでも気付かなければ、順番でその人達、一人一人の偽我の姿が隠せなくなり、明らかになります。もうこの二、三年の間にそれが起きているにも関わらず、まだなんとか隠し通そうとしている様ですが、それらの偽我で生き続けて、他を苦しめている人達の存在に気付き始めた人の数は、世界中で毎日毎日増え続けています。嘘の上塗りは絶対に破綻します。これらのことに気付いたら、自分は、どの様に対処したらいいのか、また、意識をどこに向けたらいいのか、一人一人よく考えてみなくてはいけない時期に来ているのだと強く感じます。まずは、自分の本質に気付くことです。これが自覚です。自分の本質に気付き始めたら、肉体を纏っている自分は影で、この世は錯覚に満ちていることに気付きます。そして、自らの自由意思で、真我で生きる選択をしなければなりません。なぜならば、救い主は自分だからです。

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