隣人を愛する

意識
隣人を愛する
「神を愛する唯一の道は君の隣人を愛することである。
なぜ自分の隣人を愛さないのか。彼が我々とは違った理想を持ち、違った慣習、違った宗教、違った国籍を持っているからなのだ。故に人は、一体理想とは何か、信仰とは何か、国籍とは何か、組織化された宗教とは何かを理解しなければならない。そんなものは未熟な心の産物ではないか。」(キリストのヨーガより)
 少し長い引用になりましたが、私も含めて、今の人々が一度立ち止まって考えるべき非常に大切な言葉だと思います。
この文章の冒頭にある、”神を愛する唯一の道は君の隣人を愛することである”とはどういうことでしょうか。
それは、私達の本質は、皆キリスト(神我)であり、愛(神)そのものである故に、神を愛する唯一の道は隣人を愛することである、となるのだと思います。そして、隣人とは、毎日私達の目の前に現れる人達のことです。その人達を愛してないのなら神を愛してないということです。このことを真に理解するには”全一体の境地”を味わうしかないと様々な聖人が言っています。
私は宗教組織に属したことはありませんが、世界中の宗教組織に属する人々は、神よ神よと祈り、神を愛すると言います。では、なぜそれらの人達は他宗教の人達を非難したり、お互い争ったりしているのでしょうか。その理由を見出すヒントが上記の言葉にある様な気がします。
因みに、宗教組織について、ある聖人はこうも言います。
「いと小さき者に対する普通程度の親切さえ欠けている。数あるこれらの宗教のうち、そのどれに愛があるのだろうか。ない。」(キリストのヨーガより)
なかなか辛辣な言葉だと思います。
また、前にも書きましたが、ある聖人は、私達が今生生きている意味と、それを追求する上で大切なのは、「教義の解釈ではない。魂の自覚である」とも言っています。私達人間は、宗教に限らず、様々な組織の中で、”普通程度の親切”よりも”教義の解釈”に囚われ、魂の自覚ということを忘れているのではないでしょうか。もしかしたら、それらの教義などは、”未熟な心の産物である、観念や概念”に過ぎないのかもしれません。
 未熟な心を持つ自分を改善する為には、日々の生活の中で、自分が何にどの様に条件反射しているかを自覚すること、また自分が何を思い、何を語り、何をしているのかを振り返ることが重要なのです。それを通して気付いた、”自分の思い癖、悪習”を修正することで未熟な心の改善に繋がります。
そしてまた、様々な教義の解釈などに時間を費やすよりも、隣人に対するときには善意を持って対しているか、そして、純粋に親切であることが大事なことなのではないでしょうか。大袈裟なものではない”普通程度の親切”を自分が日々しているのかどうかを見つめることがより大切な様な気がします。
聖人達はすべては全一体であると言います。人間が、それぞれ一人一人が、調和を意識しなければ安定、平和は成り立たないと言います。しかし、私達人間は今まで長い間”我”(偽我、自我)というものに惑わされ、分離意識を醸成し、我欲を優先させ、全一体を忘れ、調和を忘れ、我欲を満たす為の争いを絶え間なく続けて来ました。
私は、特定の宗教や組織だけが間違っていると言いたいのではありません。一人一人が己の本質を見失って、根強い分離意識を持ってしまったことが不調和の原因だと言いたいのです。聖人達は分離意識などというものは本来無いと言います。実在は唯一つであると言い切ります。その様に言い切れるのは実感したからです。ならば私達もそれを実感できるように努力すれば良いのではないでしょうか。しかし、実感するということは、誰かに教えてもらってできるものではありません。それは、一人一人自ら独自の道を進んで実感するしかないのです。自分の本質を自覚し表現することは他の誰かにしてもらうことはできず、真我覚醒した人のアドバイスを受けながら自分で追求の努力をしなければならないのです。その為には、それぞれが今いる場所、または行く場所で、身・口・意を正し生きること、明想を通して本質と繋がる努力をすることです。そして、本質を実感したら、分離などというものは無く、すべては全一体であることが分かるのだと思います。
「実在に区別はないのである。従って、宗教であろうと、国籍であろうと理想、信仰であろうと、人間と人間とを引き離すものはニセモノに外ならない」(解脱の真理の中のある聖人の言葉)

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