啓示
世の中には、不可視の存在から、啓示を受ける人がたくさんいる様です。キリスト教は自ら「啓示宗教」としています。聖書は「特別啓示」とされている様です。その他にも、「日月神事」や、個人的に”自動書記”で受ける人など、老若男女問わず、とても多くの人達が不可視の存在と繋がっている様です。それだけたくさんの人数が必要なのかもしれません。世界には、七十数億人もの人がいますから、それらの多くの人々へ何かを伝えるには、能力を持った人の数がそれなりに必要になると思います。
私は、不可視の存在と繋がっている人は、自分の波動と同じ様なところから情報を受けているのだと思います。そして、この様な人達は、自ら、そういうお役目をすると決めて、今生に来たのだと思います。また、その能力には、たくさんの種類がある様です。
私は、この様な不可視の存在と繋がって、いろいろな情報を受け取るということは、本当にあることだと思っています。実際に身近にいましたのでそう思うのです。本当に普通の人で、特に周りには何も言わなかった人です。逆に、中には、この能力を商売にする人もいます。私は、それらの人達が何をやっても別に構わないと思います。そして、自分が、この様な事に、興味がなければ、無視すればいいと思います。興味があれば、自分に合うものを選べばいいと思います。
私は、約八年前まで、不可視の世界などに、全く興味が無く、むしろ敬遠していました。しかし、肉親の他界を機に突然受け入れる様になりました。感じるものがあったからなのです。ただ、すぐに何かの団体に入ったり、会合に参加する様なことはしませんでした。なぜなら、自分のペースでやりたいからです。だから、こうしなさい、ああしなさい、これを身に付けなさい、これを部屋に置きなさいなどと言われてもやりません。腑に落ちたものを、自分のタイミングでやります。それだけです。やっていることは、本を読んだり、ブログや動画などを見ることくらいです。それを日々の生活の中で活かすようにしています。それと、内観をします。それも大袈裟なものではなく、自分に集中するということを、気が向いた時にします。
私は、この様な能力を使い、人に何かしらの手段で公開している人達には、感謝しています。ありがたいと思います。使命感を持っている人がたくさんいると感じます。誹謗中傷されながらも、やっている人がいますから。あとは、その時の自分に合うものを、自分で選べばいいだけです。そのたくさんの人達の中から、自分の波動に合う話などを、その時その時に選択すればいいのだと思います。以前読んだ時は合わないと感じたものが、今は合うと感じることがよくあります。これは、自分が変わったということです。
因みに、合わないと感じるものは、お金を必要以上に求めるものや、強制的なものなどですが、そういうものからは、私は離れます。それでいろいろ言って来たら余計に変だということと動機を自らバラしている様なものだと思います。それでも、これらの人達は、”本当に繋がっていれば”、ある意味、全員本物だと思います。正しい、間違っているということではありません。真理とも違います。真理というのは、たくさんありますから。つまり、繋がりが本物だけど、それぞれ繋がっているところが違うのだと思います。だから、その能力を持つ人が低い波動だとそこと繋がるし、高い人はそこと繋がるし、それぞれなんだと思います。
私から見て、不可視の存在が話す時の言葉使いが、ちょっと乱暴というか、雑という感じの人がいます。でも、凄い人気がある様なのです。やはり、同調するのだと思います。良い悪いではないのです。だから、自分に合った波動のところを参考にする程度で、私は十分です。人気がある無しに重きを置かない様にしています。
私が好きな話があります。以前、書いたことがある話です。それは、「昔々、あるところに、きこりが住んでいました。ある日、いつもの様に、山へ木を採りに行きました。そこできこりは、突然啓示を受けて、全てを悟りました。それからどうしたかというと、きこりは以前と何も変わることなく、きこりを続けて暮らしました」という話です。この話は、啓示を受けたという”きっかけ”で、本当の自分(本質、分け御霊)を思い出し、だからこそ、自分の目の前にある事に、淡々と対処して、日々暮らしていくことが大切だ、ということを言っているのだと思います。それゆえ、私にはしっくりくる話だし、何かこれでいいんだと思い出させてくれるところや、安心感もあり、なぜか、笑顔になれるお話なのです。
私にとって、啓示とは、特に神秘的なものばかりではなく、この話の様に、ハッと気付きを与えてくれる、自然と笑顔になるものなのです。
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