誰かを思うこと

生活

誰かを思うこと
 ある旅番組の中で、こんなエピソードがありました。それは、ある女性が、実家のある故郷へ帰り、二、三日、家族とのんびり過ごしました。そして、東京へ戻る際に、いつもの様に、玄関で母親に、またねと言って別れました。駅に着き、列車に乗って、少しすると、彼女は、ふと窓の外を見ました。すると、玄関で別れたはずの母親が、線路のすぐ近くの畑から、勢いよく手を振っていました。母親が彼女に気付いたかどうかは分かりません。彼女も、その姿を見て、慌てて手を振りました。年老いた母親が、ヨイショと立ち上がり、自分への思いから、わざわざ畑まで行き、気づかないかもしれないのに、自分が乗ってる列車に手を振る為だけの、この数秒のために来てくれたことに驚きと、言いようのない嬉しさを感じたとのことです。母親はその様なことを、今までしたことはないし、する様な人でもなかったと言ってました。娘に対する思いが、ただ素直に出たのだと思います。
私は、このお話の情景を思い浮かべ、何だか心洗われる思いがしました。この様な事は、改めて、その人の自分に対する思いを確認することになり、より絆を深める事になる様な気がします。さり気ない形がいいですね。母親が子を思う、子が親を思う、兄が妹を思う、彼が彼女を思うとき、その思いの表し方は、人それぞれ、いろいろあると思います。
私の母親、父親は、どんなだったかと少し振り返ってみました。晩年の父親が、このお話に出て来る人の様に、私が東京に帰る時、姿が見えなくなるまで手を振っていたのを思い出しました。母親は、もっとサラッとしてて、そんなことはまずしない人でした。そして、私の頭の中に、”二人とも、世の中でこの人たちは私を裏切らない”という思いがパッと出てきました。ハッとして、もう一度考えてみましたが、たしかに、私は、両親に、絶対的信頼感を持っていました。もうそれだけで、ありがとうです。あれやこれやうるさく言わなかったけれど、密かにずっと思いを向けてくれていたのを感じました。相手が煩わしくない様に、密かに思う、いつも通りに接していたけど、思いは強かったというのを改めて感じました。”こんなに心配しているのに、なぜ、気持ちを分かってくれないの”などというのはありませんでした。このさり気なさが好きです。私もこれは引き継いでいると思います。ベタベタ感、押し付けがましい、重い感じというのが苦手です。いつも言っている、自由意思と選択の自由の原則から言ったら、誰かに対して、何かしらの強い思いがあっても、サラッとした対応の仕方になるし、またそういう関係になると思います。否定、強制、脅迫というのはありえません。”私はこう思います。同じなら、では、一緒に”となり、”違うなら、お互い、お好きにどうぞ”となるでしょう。私は、この考えは非常に大事なことだと思います。
私は、人が誰かを思う時は、理屈で考えてないことの方が多いのではないかと感じます。思う理由は、好き、嫌い、何か気になる、などいろいろあると思います。また、逆に、一緒のクラスや職場の中には、なぜか全くと言っていいほど関心が向かない人もいるのではないでしょうか。
これって何なのでしょう。袖擦り合うも他生の縁と言う様に、薄い縁から、向こうで合意済みなのか、濃い縁があります。いずれにしても、関心が向かう人は、何かしらあるのでしょう。今生での経験の為のステージに必要な人なのかもしれません。または、単なる波調が合う、合わないからなのか、波動の共鳴なのか、錯覚なのか、いろいろあるのかもしれません。
いずれにしても、縁があると感じた人への思いの表し方は、”さりげなく”、私はこれが好きです。

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