つまりはこういうことなのか

意識

つまりはこういうことなのか
 私達人間がこの世で生きる理由とは何でしょうか。
それは、本当の自分とは何であるのかということに、しっかりと気付くことではないでしょうか。
本当の自分とは、永遠の存在で、常にここにあり、今までも、何ものにも傷つけられたことがない実在というものです。まずは、この真実に気付くことが大切なことです。
本来は、愛の(他を生かす)存在ですが、何度も転生するうちに、肉体の自分を本当の自分と錯覚してしまい、影の世界を本質と錯覚するあまり、大元へとなかなか戻ることができなくなってしまったという人が多くなったのだと思います。その幾転生の中で、様々なカルマ(宿題)をどんどん背負ってしまい、それらを解消するために何度も輪廻転生を繰り返し、堂々巡りをしているのだと思います。それ故に、苦しみから解放されないのだと思います。この様に私達は、真我に気付かず、偽我を真実と錯覚したまま、その自由意思で、様々な混乱を引き起こす様なことを選択したが為に、輪廻転生を何度も繰り返しているということです。
つまり、自己責任の元で、偽我を何度も繰り返しているわけです。真我は共存、共栄、与えて、他を生かして生きる愛の存在なのに、その真我をそのまま素直に生きればいいだけなのに、それに気付かないが故に受け入れられないのです。受け入れさえすれば、いつでも大元に戻り、至福に至れるのに、そうする意思を選択してないだけなのです。気付いてみれば簡単なことなのです。すべては同じ愛の中にいて繋がっているのです。だから、他を傷つけることは、自分を傷つけることになるのです。それを忘れてしまった人に、”そっちじゃないよ”と、愛(一点の曇りもない癒しのエネルギー)を送れば必ず癒されます。しかし、気付くのはその人の努力が必要です。誰にも、他の人の意思を変えることはできないからです。
私達人間には自由意思が与えられています。その意思で神を望む選択をしなければ、神はその人の意思を尊重して、姿を見せません。自分の意思で望まないとダメなのです。それらのことに気付かないで、いつまでも偽我のままを繰り返していると、カルマ(宿題)をどんどん積み上げることになります。偽我が創り出したそれらのカルマの解消をするには、真我に気付かない限り解放されません。だから気付かない人は何度も輪廻転生を繰り返してカルマを背負い、それを解消し、また別のカルマを背負い、それを解消し、また別のカルマ、、、とずっと繰り返してしまいます。その苦しみを断ち切るには、真我に気付き、それを受け入れて、そのまま生きればいいだけです。
どう生きればいいのか?
それは、奪うのではなく、与えて、優しさや思いやりを持ち、他を生かして生きること、共存、共栄、調和で生きることです。
つまり、そこには分離感や差別は無いということです。なぜならば、元々一体なのですから。
神は一人何役もしているのかもしれません。それは楽しむためであり、そうするのが本来の目的で、殺し合い苦しむためにしていることではありません。それが、人間は、一人一人が自由意志を持つが故に苦しみを自ら創り出してその連鎖から抜けられなくなっているのです。そんないつかは必ず消滅する偽我に執着するのではなく、永遠で常にここにある真我で生きる選択をすれば自らを完全解放することができます。
命は光であり、すべてを生かすエネルギーです。その光が自分の心を投影して現れた姿がこの世の自分の姿です。静心であればそのまま美しい姿で現れます。その光が消えたら、この世には何も残りません。それは全てのものがそうなります。その様なものに執着してどうするのでしょうか。いつかは必ず消える影に執着しても仕方がありません。自分はすべてを生かすエネルギーである命そのものです。これが本質です。これに気付いたら怖いというものはなくなります。なぜなら、永遠であり常にここにあるのですから。この本質のまま素直に生きればいいだけなのです。それは、すべてを創造し、建設し、生かす愛です。殺して生きるのではなくて、生かして生きるということ、不調和ではなくて調和で生きるということです。素直に見れば簡単なことです。自分の本質というものは、この様なものなのだと気付いたら、この世は平和になります。そして私達も、仮に肉体を拘束されたり、傷ついたり、失ったとしても、本質の私は絶対平和の境地になるのです。
「つまりはこういうことなのか」と私はそう気付きました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました