なぜ調和しなくてはならないのか

意識

なぜ調和しなくてはならないのか
 私達は、生きることに迷った時などには、本を読んだり、セミナーに行ったり、宗教の教義を学んだりして、何かしらの答えを掴もうとすると思います。それらの教えや話に共通しているのは、共に助け合い、分け与え、調和的に生きることが大切です、ということではないでしょうか。もちろんこのことは、一番大切で本質的なことだと思います。しかし、なぜそうするのかという理由を理解していないと、日々の暮らしの中で、その言葉のまま、いわゆる字面のまま、何となく心掛けてみるという感じで、言動や行動をしたときや、実際に日々の様々な事象に向き合った時に、そこで湧き出る感情に振り回されてしまうかもしれません。
例えば、日頃から不満に思っている人にヘルプを頼まれた時に自分はどう思うか、また、実際ヘルプに入ったら、逆に不平不満を言われたらどうでしょうか。それでも、共に助け合い、調和的にという思いを維持できるでしょうか。おそらく、反射的にキレたりする人が多いのではないでしょうか。この様なシチュエーションのときに、どの様な対応ができるかが大事なことなのです。不満という思いを向けている人と、直接向き合う場面です。それは、何かに気付き、解決するチャンスかもしれません。自分で引き寄せた、自分に必要なことが起きているのです。でも、無理をして、学んだ言葉の通りにできなくても仕方がないと思います。なぜならば、その時の反応の仕方が、その時点での自分のレベル(誰かと比較してのことではなくて、自分自身の成長度合いという意味です)だからです。反射的に反応したなら、今のそれが自分であり、その対応に対して、それなりの事象がまた現れます。また同じことを繰り返せば、同じ様なことが形を変えて繰り返し現れます。それが嫌なら、どうしたらいいのか、よく考えてみることです。相手を変えることはできないので、自分が変わるしか無いのです。そして何かに気付いて、対応を変えられたならば、課題クリアです。周りも徐々に変わります。
この様に、頭で理解してるつもりでも、実体験となると、なかなか頭で理解した様には行かない事が多いと思います。だから、身をもって体験しながら学ぶことが大切なのだと思います。そして、この様な時に、先述した、共に助け合い、調和的に生きる、ということを、いわゆる、そうしなくてはならないとかそうすべきなどという、べき論として考えてしまうと、腑に落ちてない場合には、逆にストレスがたまり苦しくなるのです。なぜその方向に考えた方がいいのか、しっかりと理解してないからです。そうではなくて、理解が、しっかりと自分の腑に落ちている状態で、ことを進められるならば、辛いながらも、納得しながら努力を継続できると思います。
私が先に書いた、共存、共栄、共生、調和が一番大切だと思うのは、自分なりに納得しているからです。正直、ブレることもしばしばありますが。
 私は、すべては一つの命に生かされていると思っています。すべてです。そして人間は自由意思が与えられています。いわゆる神の似姿ということです。その意識は今ここにあるという状態です。本来は、時間も空間も何も無く、ただある、存在しているということだと感じます。神は、それでは退屈なので、自分で自分をたくさん分けて、それぞれに個性を持たせ、あらゆるものを創造しながら、楽しむことを始めて、今に至っているのだと考えています。その過程の中で、自分を見失ってしまった魂が多くなり、波動がバラバラになり、大元に戻れなくなっているのだと思います。波動共鳴の法則です。合わなければ融合できないからです。つまり、元はすべて一緒なのにバラバラのままということです。例えば、百人いたら、一人でも欠けたら元に戻ったことにならないということです。だから、共存、共栄、共生をして、調和的に生きることを自然にできる様になることで波動が大元に近づくのだと思います。共存は安心を、共栄は嬉しさを、共生は愉しさを齎し、それら調和的生き方は平和を齎します。故に、一人でも排除する思いを持てば、完成しないということです。だから、すべてを生かす思いを持ち、分離感で迷っている人には、そちらではなく、こっちですよと話したり、祈ったりする必要があるのだと思います。この世でそれぞれがそれぞれの役を演じて楽しんでいるだけなのに、その仮の姿を本質と錯覚して、いつまでも争っているなんて、滑稽なことだと思いませんか。自分で創造したものに支配されているなんて、錯覚するにも程があるということでしょう。私は、この様な背景から、共存、共栄、共生、調和的生き方をした方がいいのだと理解しています。
目に見えているものは、すべて被造物だということです。自分が創造したものということです。本質は神性意識、命ということです。もう辛い経験は十分だという人は、自分の本質に気付き、その通りに生きる様にすればいいのだと思います。それが、共存、共栄、共生、調和的に生きることを選択するということなのだと思います。

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