修行

意識

修行
 修行と聞いてイメージするのは、座禅を組んだり、難業したり、険しい山に登ったり、冷たい海に入ったり、滝に打たれたりという様なことではないでしょうか。私もこれらのことをイメージして、過去に少しだけ自分で試したことがあります。だから、こうした事を否定もしないし、殊更肯定して、他の人に強制することもしません。今まで、いろいろなことを実際に試した結果、修行とは、たぶん、こういうことなのだろうと、今では私なりに実感していることがあります。
私が試したことは、座禅を組む、突然一人旅に出る、滝に打たれる(真似事)、冷たい海に入る、連日山に登る、ひたすら歩く、寺社仏閣を巡る、などです。しかし、私にとって、どれもが、しっくりくるものではありませんでした。
そんなことをしながら日々暮らしていたのですが、ある日、普通に生活をするだけの大変さを意識しました。きちんと自立して生きていくだけで、こんなにも毎日毎日大変なことがあって、それに向き合うことの大変さを改めて意識したのです。あたりまえのことを言っている様ですが、意外に、自分のしていることを意識してないことが結構あるのです。よく分からないという人は、一度、改めて自分の毎日していることを意識してみてください。必ず何かに気付くと思います。
私は、その様に意識してみたら、私のルーティンが分かり、これはやめた方がいいなとか、なぜこれを毎日しているのだろうとか考えて、自らの思い癖に気付いたことがありました。自分が何を好むか、避けてしまうか、嫌がるか、などが少しずつ分かり始めたのです。基本的に日々の生活の中で目の前に現れる様々な事象とは、自分の思い、言葉、行為の結果が現れてます。だから、それらのことから逃げずにしっかり向き合うこと自体がカルマの解消になると思います。そして、それらから逃げたり、対処の仕方がまずければ、またそれなりの結果が現れるのだと思います。つまり、それに立ち向かうことが、既に修行なのではないかと気が付きました。自己改善ということになります。考えてみたら、その修行が一番大変かもしれません。それに気付いたら、もうそれだけで十分大変なことなのに、わざわざどこかに行ったり、それを考えたり、段取りしたりする時間は無いと思う様になりました。
それからは、自分の目の前に現れる様々な事象を意識して見るようになりました。それと同時に、その際出てくる、いろいろな思いや感情も意識する様になりました。その思いや感情とは、「どうして自分ばかりこの様な目に遭うのだろう」「思い通りになることはほとんど無い」「なぜこんなに格差があるのだろう」「なぜこんなに不公平なんだろう」「こんなに頑張っているのになぜ楽にならないのだろう」「なぜあいつが、なぜあんなに悪い奴が、なぜあんな狡いやつが」などの思いや、僻み、嫉妬、恨み、怒り、絶望、自己否定、分離感などの感情を抱いている自分を意識することができました。それらを意識できる様になって、改めて自分のことが分かる様になりました。今書いたものだけで、ほとんど誰かとの比較、勝ち負けの視点、他人の評価待ち、など他人軸ばかりであることに気が付きました。自分では、本当は何をどうしたいのかをしっかり認識した上で生きていません。誰かに、ああ言われた、こう言われたなどと必要以上に気にしているのです。自分軸がほとんど無く、他人軸に振り回されていました。
自分の思い、言葉、行為は自分に跳ね返ります。法則です。上記した様な思いや感情を元に、言葉を発したり、行動していたわけですから、それなりのことばかり起きるのも当然かもしれません。この様なことを認識する様になってから、様々なことを学び気付いて、思い、言葉、行為を正そうと思いました。それも次第に肩肘張らず、何となく自然にできる様になってきた様に感じます。
「修行とは修正すること」上江洲義秀さんの言葉です。ある日この言葉を聞いて、なるほどと思いました。
 私達人間は、自分の本質を自覚するために、何度も何度も輪廻転生を繰り返しています。本質が永遠不滅の存在と自覚するまで、私達人間が肉体を本質と錯覚しながら繰り返してきた、様々な出来事やそれに伴うさらなる結果に対して、どの様に対処するか、どの様に思いや言葉や行為を正すのか、この一つ一つの修正を修行というのだと思います。それに対して逃げずに立ち向かっていれば、いずれ自分の本質が何であるかを完全に実感するときが来るのだと思います。それを、上江洲義秀さんは「完成」と呼びます。さらに、「完成」すれば、「業、罪、カルマを焼き尽くし、至福の大海に錨を下ろせる」とも説いています。最高だと思いませんか。

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