神
私は、昔から、”神”という文字の意味がよく分かりませんでした。一般的なイメージだと、”どこか遠くにある場所から私達を見守っている至高の存在”を表すとされているのだと思います。しかし、私には、どうしてもピンと来なかったのです。小さな頃から考えて来ましたが、時には上記のようにイメージしたり、”人が何らかの修行をした結果、そのレベルに到達した存在”と考えたり、いろいろなイメージを持って、それらいろいろなイメージの間を、行ったり来たり何度も何度も堂々巡りしていました。それで、ようやく最近になって、「ああ、こういうことなんだ」と、私なりに、やっと気付くことができたのです。
神という文字は、示す、申すと書きます。つまり、自分を示す、申すということです。何を言っているかというと、神は、「無形、無双、無臭、無音、無色」(上江洲義秀さんの言葉)の実在なので、何かしらの方法を使わないと、それ自体存在を示せません。だから、それを表すために、人間の体を創り、その思いを、言葉で”申し”、姿、形を行為等によって”示す”ということをしているのだと思います。つまり、その様な側面から本質を表す文字が、示す、申すを意味する神というものだということです。これは、弁護士の秋山佳胤さんが、ある対談本の中で「神という文字は示す、申すと書きます」と言っていたことなのですが、私の印象に何年も残っていた言葉だったのです。しかし、私には、しばらくの間、その意味がまったく理解できなかったのです。それが最近になって、ようやくその意味が分かったのです。
私達人間の本質を表す言葉はいくつかあるようです。神という文字は、本質を”示す、申す”という意味から表す言葉で、愛は無限の創造、建設、生かしの意味から、命は全てを生かすエネルギーの意味から本質を表現する言葉で、それらは、”同じ一元なる実在”を表現しています。実際には、言葉で本質を表現するのは、非常に困難なので、上記以外にも、
“真理”、”光”、”真実”などの言葉を使うこともあるようです。しかし、どれもが、”同じ一元なる実在”という本質を表す言葉です。
まとめると、私達人間の本質は、一元なる命です。それがすべて(宇宙、太陽、地球、人間、動物、植物、人工物など、すべて)を創造し、たった一つの材料で建設し、生かしています。一つは全体の中で生かされています。つまり、自分は全体の一部であり、すべては本質と繋がっています。本質は隙間無く遍満しています。ゆえに、本質から分離して存在しているものはありません。本来は、時間、空間、距離はありません。この意識と自分が融合したら、無限意識との融合ということになります。そこには分離、差別などはありません。全ては繋がっているのです。だから、自分が思ったこと、言葉や行為として表したことは、必ず自分に跳ね返ってくるというわけです。あなたは私ですから、恨んだら、その波動は自分が受けるのと一緒なのです。自分を恨んだりしているのと同じなのです。また、相手を生かしたら自分を生かしたことになります。だから、愛するものは愛され、嫌うものは嫌われることになるのです。
この様に、本質とは、意外に単純な様に思えます。しかし、これを腹に落とし込んで実感できないと、いつまでも分離、差別感を無くすことができず、共存、共栄、共生、調和的生き方ができないのだと思います。もしかしたら、ほとんどの人ができてないのかもしれません。その証拠に、ずっと戦争し続けています。私達人間は、自分や他人の肉体を見て、それを本質だと思い、その見た目の違いなどから意識する分離、差別感からお互いを攻撃したりしています。繰り返しますが、これは自分が自分を攻撃しているのです。これは誰のせいでもありません。自由意思で、意識をそこに置くと選択をした本人達の責任です。つまり、全て自己責任ということです。だから、まずは、一人一人が本質を見つめるということをし始めること、その結果、上記の様な、”私達は全一体である”ことに気付いたら、初めて争いは無くなると思います。
私達人間は、そろそろ本気で、自分の本質へ意識を置き始める時期だと思います。それはつまり、神そのものを生き始めるということです。上江洲義秀さん曰く、人生から神生へと変換する絶好のタイミングだそうです。今回を逃すと、またしばらく輪廻転生を繰り返すことになるのかもしれません。
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