うまいことやった人生
「誰が見てなくても神様が見てますよ」
25年位前のことです。私の甥っ子が幼稚園に通っていた頃、親戚の誰かに貰ったお守りをなくした事がありました。それを、まだ一歳を過ぎたばかりの弟のせいにして黙っていたのです。ある日、彼の家族と昼食を共にすることがあり、そのお守りの話題になりました。その時の甥っ子の様子を見て、私は何か変だなと思い、タイミングを見て、この様に言ってみました。「あのね、誰が見てなくても神様は見てるんだよ」と。そうしたら、その甥っ子は、ボソボソと呟く様に話し始めました。「本当は、ずっと前になくしたんだ」これを聞いた彼の母親の驚き様は大変なものでした。それはそうです。彼の弟である赤ちゃんの悪戯として黙っていたのですから。その時は私達夫婦がいる手前、笑い話で終わりましたが、家に帰ってから、彼がどうなったのかは分かりません。でも、このとき、彼は、心の奥に留めていたある思いを吐き出せて楽になったのだと私は感じました。いわゆる良心の呵責というものかもしれません。
この話を思い出して、私も今までに何度か誰にもバレなければいいやと思ってやり過ごしてきたことを思い出しました。しかし、それらは、後々、より大きなしっぺ返しとして自分に跳ね返って来ました。それはあたりまえだと今は分かります。それが法則ですから。私は、こんなこともして来ました。それは、お客様にとってあまりメリットがあるとは感じられないものを、会社の政策だからといって、あれやこれや話法を考えて売り込むことや、それが後々どうなっても、責任を追求されない様にしたことなど、その他にも細かなことが今思い出してもたくさんある様な気がします。世知辛い世の中だから仕方がない、としていた様に思います。悪いことだと思っているのにやってしまうということです。たぶん、これが一番いけないことなのだと思います。また、そう気がついている間はまだマシかもしれません。そうではなくて、自分さえ良ければ、家族さえ、仲間さえ、会社さえ、地域さえ、国さえなどとなると、どうなってしまうのでしょうか。たぶん、今の様になるのだと思います。世界の状況は、結局、私達人間の集合意識の状態で決まるのだと思います。今は、大統領や首相などの指導者達が、自分さえ、仲間さえ良ければという人ばかりに見えます。その人達を受け入れて来た私達の意識状態の結果が今です。もう地球も我慢の限界かもしれません。それなのに、自分さえ良ければという様な、分離、差別感を修正せずに、私達人間は、懲りずに、今までと同じ様に生きていくのでしょうか。
いい人生だった、そこそこ上手くいった、この様に感じる人生とは、具体的には、人それぞれ様々だと思います。例えば、裕福な家庭に生まれ、経済的に苦労をせず、学歴もあり、仕事にも恵まれ、家庭も持ち、子供にも恵まれて、優雅に今生を終えたとします。これはこれで表面上は素晴らしいと思います。でも、その生が、自分さえというもので構築されていたのならどうなのでしょうか。私には何かが欠けている様な気がします。それは全体の調和という視点などのことです。自分の思いは、自分さえという利己的なものではないか、人を傷つける言葉を放ってはいないか、行為はどうかなど、いわゆる、言いたい放題、やりたい放題をしていないかが重要です。やりたい放題してきたにもかかわらず、自分では、楽しい人生だったとか、そこそこいい人生だったなどということになってはいないでしょうか。そこをきちんと理解できないで、”うまいことやった人生”などと思ってしまったら、”またやり直し”ということになるのだと、私は思います。
私が基本にしているのは、”優しく、愛(他を生かす)に溢れ、互いに思いやり、他人に強制することなく、自分の好きなことをきちんとやれる人生”です。
どんなに、”うまいことやった”と思っていても、「誰が見てなくても神様が見てますよ」ということです。一説では、生まれてから死ぬまでの一瞬一瞬の思い、言葉、行為は完璧に記録されているそうです。だから、良い人になろうと言いたいのではありません。それぞれがやりたい様にやればいいと思います。しかし、それらのやりたい様にやった、自分の思い、言葉、行為が正確に記録されているのであれば、それらの三行為が、いずれ自分に正確に跳ね返ってくることを忘れないようにしたいものです。それは、例えば、”騙すものは騙される”という様なことです。この絶対法則に気付くまで、悩み、苦しみなどからは解放されないのだと思います。その法則に完璧に気付いた人が、あらゆる悩み、苦しみから解放されるのだと思います。それに気付いた人生が、本当の意味で、「うまいことやった人生」ということになるのだと思います。
コメント