解消(心の汚れを取るには)

意識

解消(心の汚れを取るには)
 世の中には、”悟りたい”と思っている人がたくさんいると思います。
また、”悟る”という日本語をそのまま使う外国人も多いと聞いたことがあります。  
 悟りに至るためには、心に一点の汚れもあってはいけないと言う人がいます。それに対する解釈も様々あると思いますが、いずれにしても、悟りへ至る道は、非常に厳しいものなのだと思います。なぜなら、悟りの境地とは、愛(本質)そのものを生きることであり、それには愛の波動以外のものがあったら、そのものを生きられないからです。つまり、一点でも汚れがあれば、愛との融合はできないということです。私はそう考えています。
では、心の汚れを取るにはどうすればいいのでしょうか。また、心の汚れとは何を指しているのでしょうか。
心の汚れの最たるものは、”分離意識”です。それがあると本質とは一体になれず、融合できません。つまり、悟りの境地には絶対に至れません。その分離意識を持つと、いろいろなことで差別したり、見下したり、または、自ら卑下したりします。それらの思いや言葉や行為などが、怒り、恨み、嫉妬などの感情に繋がります。また、分離意識とは、何かに
“特別”を認めると湧き起こるものです。例えば、金持ちは偉いとか、貴族は偉いとか、宗教会の位が高い人は偉いとか、何かしら肩書きがある人は偉いなどと認めることです。でもそれは、どこかの誰かに巧みにそう思い込まされているだけだと思います。それらの肩書きは役割に過ぎません。だから、必要以上に崇める様なことをしなくても良いのです。それらの人達の言葉や行為をじっくり見つめてみると分かるかもしれません。私達と何も変わらないことに気がつくと思います。よく考えてみたら、肩書きがあるから崇め奉るなんて非常におかしなことだと気付くのではないでしょうか。また一方で、全くそう感じない人達もたくさんいると思います。なので、私は、他の人が、それをどの様に捉えていたとしても否定非難はしません。しかし、これからの世界には”特別”は必要がない概念ではないかと思うのです。次第に無くなるような気がしています。なぜなら、”特別”な人などいないからです。でも、”特別”を認めて、崇められたい人、また崇めたい人は、やりたいだけやればいいと思います。その様な状態での経験が、まだそれらの人達には必要なことなのかもしれないからです。私も散々偉くなりたいなどと本気で思い行動していた時期がありました。しかし、いろいろなことを経験するにつれて、特別は無いし、偉くなることに思いが至らなくなりました。そして今は、私達人間の本質は平等だと分かりました。だから、私達人間の本質が”全一体”であると認識する人が徐々に増えてくるにしたがって、その様な分離感など錯覚にすぎないと気がつく人が多くなる様な気がしています。そうなれば、地球の集合意識が変わると思います。そうして、徐々に、地球が本来の平和で美しい星へと変わっていくのだと感じています。
因みに”全一体”とは、私はあなた、あなたは私ということです。だから、自分を愛するとはあなたを愛するということになるのです。自分を傷つけるのは、あなたを傷つけることになるのです。また、あなたを傷つけるのは自分を傷つけることになるのです。まずは、一番身近な自分をしっかり愛することが何なのかを知らなければならないのだと思います。繰り返しますが、元々、”特別”など無いのです。
 それでは、心の中に潜んでいる汚れを取るには、具体的にどうすればいいのでしょうか。
私達人間は、日々の生活の中で様々な活動をしています。その中で、ある時、何かの縁に触れて、心に潜んでいた”種”が発芽することがあります。それは、制御できない怒りだったり、忘れかけていた恨みだったりするかもしれません。発芽した時、自分にもこんな感情があったのかと驚くかもしれません。それらを、感情の赴くまま流してしまうのではなく、それらをきちんと認識した上で、”その原因を正しく解釈して消去すること”が、心の汚れを取る具体的なやり方なのだと思います。これが”解消”するということです。そして、そのやり方を忍耐強く続ける努力が非常に大切なのだと思います。
また、いつも感じているストレスなども、その様なやり方を参考にすれば、真の解消に繋がるのではないかと思います。多くの人達がお酒で紛らわしたり、体を動かしたり、何かに没頭したりして、ストレスの解消に繋げようとしていると思います。しかし、その様なことでは根本的解決にはならないのではないでしょうか。一時的に解消した様に見えて、実は、心の奥に潜んでしまっているのかもしれません。意図的に封印しているのかもしれません。知らないふりや、忘れたふりをしたり、強引に自分を納得させた様なふりをしていることが多いのかもしれません。そして、それが心のどこかに根を下ろし、何かの縁に触れた時に、いきなり発芽して表面に現れてしまうのだと思います。
でも、その時が、自分の心の汚れをきちんと認識するチャンスなのです。きちんと認識して、正しく解釈して、納得することができたなら、汚れを一つ消去できるのではないでしょうか。つまり、もつれた糸をほぐすか、そのままにしておくか、ということです。知らんぷりしてたら永遠にほぐすことができません。努力すればほぐせます。それが簡単なこともあれば、困難を極めることもあるかもしれません。しかし、いつかは自分でしなければならないのだと思います。それを今するのか、しないのかということだけなのです。
 私達人間は、何事につけて、自分の都合の良し悪しに重点を置いているのではないでしょうか。都合良く行けば良い日、悪ければ良くない日などとしていると思います。でも、視点を変えれば、必ずしもそうではないことに気がつくと思います。自分の都合の良し悪しに視点を置いている間は、沸き起こる不平不満が、心の汚れを取る作業の邪魔をするのかもしれません。他のせいにしている間は、自己を見つめることに集中できないのです。私達人間は、自分を、どんな状況にも合わせられるように作り直した方が良さそうです。自分を見つめ続けていると、ある日ある時、毎日が聖日であると思えるようになる時が来ます。そうなった時には、この生はなんて素晴らしいのだろうと感じると思います。

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