宗教

意識

宗教 
 宗教とは、宗の教えと書きます。宗という字には大元という意味があります。その大元とは何であるのかを教えることを宗教と言うこともできると思います。私が解釈している大元というのは、神、命、愛、本質、真理、光、無限意識、完全意識、神性意識などの言葉で表します。それらが何であるかを何とかして言葉で説明しようとするのが宗教なのだと思います。なので、偶像崇拝したり大組織化してトップを崇め奉る必要はないと思います。宗教について何らかの話を聞いた時に、それがどの様なものなのか識別するときの材料として私が使っているものに、感覚的に、その話を聞いて開放感を感じるか、または窮屈さを感じるかというのがあります。私は、話の内容から受ける開放感や広がる感じを重視しています。他を裁く感じや窮屈な感じがしたらそこから離れるようにします。基本的に大切なのは、他を裁くことではなく、自らを正すことと認識しているからです。ですから、何やかやと理屈をつけて、あれを買わないといけないとか、何々しないとこうなるなどと、なんとなく不安にさせるものは論外です。これは、私の場合のことを言ってます。なので、人それぞれやりたい様にやってみることには否定や非難はしません。実際にやってみることで何かに気付くかもしれません。また経験として必要なことかもしれません。
 世に数多ある宗教は、本来同じことを言っているのだと思います。初めに啓示を受けた人が伝える際に、その人の個性が出るので伝え方が様々なものになるのだと思います。でも、どれを辿って行ったとしても最後に行き着く先は同じ所だと思います。
一方、世に数多ある宗教を名乗っている組織は、相争ったりして非難の応酬を繰り返し、長い間殺し合いまでしているのが現実です。神の名の元に殺し合う。なんてことでしょうか。自らを修正していないということです。それは、自分が正しい、そちらは偽物などという言い分でお互いを裁き合っているからです。己を正すはずが、他を裁く方に視点が行っているのです。他を思い通りにしようとするとそうなるのです。中には支配権を握ろうとしているのにその行為に気付かずにそうしている人もいるのかもしれません。でももし気付いてやっていたら、その人達が背負うカルマは想像を絶するものになるのかもしれません。我欲と分かっていてやるのはいかがなものでしょうか。いずれにしても、そんなところに近づいたら窮屈で耐えられないと思います。
 宗教とは、元々は同じことを言っているのに、時間の経過と共に、人間のエゴが本質を複雑に歪めて来てしまったのだと思います。特定の人達が、他を支配する為に組織の誰かを権威化したり、ある能力を特別視したり、それらを使ってお金儲けをしたりするなどして、啓示を受けた人達の話を書き換えて、どこかの誰かの都合のいい様に解釈し続けて今に至っているのかもしれません。その書き換えられたものは、恐怖心を煽るもの、または不安を掻き立てるものなどが多く、それらを巧みに使うことで支配を確立してきたのだと思われます。すがる思いで安らぎなどを求めて話を聞きに来たのに、何かとお金の話ばかりと感じたら慎重に対処した方がいいかもしれません。もちろん適切な講演料などは支払って当然だと思いますが、何かにつけて、何万円、何十万円、何百万円、さらに何千万円などとなったらどうなのでしょうか。私には理解不能ですが、納得して払う人もいるのでしょう。そこは人それぞれなのかもしれません。
私が思うに、本来の教えは、”人を自由ならしめるもの”のはずです。それが、ある宗教に関わったら、余計に生きることに不自由さを感じたり、人間関係がおかしくなったり、献金などの為に借金をして苦しんだりする様になったら本末転倒ではないかと思うのです。その様なことにならない為にも、私達は、それが今の自分にとって本当に適当なものなのかどうかを識別する力をしっかり持たなければならないと思います。
また、自分の内側に分離感(恨み、怒り、嫉妬など)があると、それが、過剰に反応したり、逆に付け込まれたりする恐れがあります。自分の放つ波動が似たものを引き寄せるかもしれません。だから、無闇矢鱈に答えを外に求めるのではなくて、明想などを通して自分の内側を見つめて今の自分の気持ちを整理した方が効果的で安全だと思います。テレビのコマーシャルを見て気付いてる人もいると思うのですが、例えばカルシウム不足になると将来この様なことになるかもしれませんなどと不安を煽る内容のものが実際多いのです。これを見て、「ああ、そうなんだ、そうなったらやだなぁ」と不安心理を上手く使った販売作戦です。捻くれた見方かもしれませんが、私も営業活動の際に何度も使ったやり方なので本当のことです。でも、もうやりません。つまり言いたいことは、何でも一呼吸置いて、自分にそれが本当に必要なのかどうかを日頃から自分の状態を把握していればふらふらしないのではないかということです。お金などを得ようとする動機で物事をすると、この様な作戦を取る様になり、それがあたりまえになります。それがあたりまえになった世の中はギスギスし始めると思います。だから、得る、取る、奪うという発想よりも、与える発想が優先されて、それがあたりまえな世の中になれば、そのギスギス感は無くなるのだと思います。自分でも最近このことばかり言っている様に思います。教育でも経済でも政治でもこの発想になれば真に豊かな世の中になるのにと思うのです。その為には宗(大元)の教えがきちんとなされないと、その様な世の中には絶対にならないと思います。私は若い頃から漠然とこんなことを考えていました。
要するに、”外を見るな、内を見よ”が大切であり、”誰彼がどうのこうのではなくて、責任を持って自らを正す”ということが非常に大事だということです。これが宗の教えの大切なところだと思うのです。

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