日々是聖日

生活

日々是聖日
 今日という一日を、来るのがあたりまえ、という様に私達人間は迎えているのではないでしょうか。それらの日々を、感覚的に、良い日だったとか、悪い日だった、清々しい日だねとか、鬱陶しい日だなとか、明るい日だな、暗い日だな、こういう日は好きとか、嫌いなどと、様々な感覚を持って過ごしていると思います。例えば、良い日とは自分に都合良くいった日、悪い日とは自分に都合良くいかなかった日などであり、清々しい日とは、気候穏やかで気持ち良く目覚めた日などであり、鬱陶しい日は、その反対で、好きな日とは誕生日やお正月やクリスマスなどであり、嫌いな日とは、これこそ感じる理由は人それぞれあるでしょうが、日々の捉え方には、一人一人実に様々なものがあると思います。その中には、何も考えないでただやり過ごしているというのもあるのではないでしょうか。
この様に、私達があたりまえの様に迎えている日々を改めて見てみると、感情的にも現象的にも起伏の激しいものがあることに気付くと思います。私達はその起伏を楽しんでいるのかもしれません。ずっと都合の良い日々が続けば気持ちも穏やかに過ごせるのかもしれませんが、なかなかそうはいかないのが現実です。でも、そんな穏やかな日々を、単調でつまらないと思う人も意外に多いのではないでしょうか。そう思う人の中には、変化や刺激を求めて、何か変な事をしてしまう人も出て来るかもしれません。その結果、思いもよらないことに巻き込まれて、穏やかで落ち着いた日々が失われ、今度は、都合の悪い日々が続く様になったりするかもしれません。そして今度は反対に、なんて私はついてないのだろうなどと考える様になるのです。自分で選択したのにです。
私から見て、”なぜこれをわざわざ問題にするのだろう”と思う人がたまにいます。淡々とやり過ごせばいいだけなのに、殊更大変だと騒ぐのです。単調な日々に飽きたのかなと思わせる様なことをするのです。私は、これらの人を、否定、非難しているのではありません。ふと、そう感じるだけです。でもその様なことを目にすると、本当に人間とは面白くもあり、素晴らしいものだと思うのです。
この様に私達人間は、一瞬一瞬の自らの選択で、日々をどの様なものにするかを決めているのだと思います。淡々とやり過ごすか、問題にするかというようにです。
その選択をする際に、理性的というよりも、感情的に決めていることが多いのかもしれません。しかし、理性的だろうが感情的だろうが、一瞬一瞬の選択は自らのものであることには変わりがありません。その選択の結果として今の目の前の事象が現れているということです。もしそうならば、すべての原因は自らにある、ということになるのかもしれません。
私達人間が選択したことには、それがどの様なことであっても、具現化する際には同じエネルギーが働きます。左を選択しても右を選択しても、世間一般的に良い行いにも悪い行いにも同じエネルギーが働きます。例えば、戦争に向かうのも平和に向かうのもです。私は、戦争などが具現化する際に働くエネルギーを、神が止めてくれたらいいのにと思いますが、人間の自由意志を侵すことはしないという法則に基づいて、その方向にも同じ様にエネルギーが働きます。つまり、私達人間の思いが今の目の前の現状を創り出しているのです。その状況が嫌なら思いを変えるしかありません。それだけ私達人間は、自由意志と選択の自由というものの使い方を正さなくてはならないのだということなのかもしれません。そこには、私達が、”こういうことをすればこの様なことになる”ということを学ぶ機会が提供されているのだと思います。
すべては学びを通した気付きの為にあると見てみると、良い日悪い日などというのは無いのかもしれません。これを選択したからこうなったのですよということです。その様な日々を経験することで、私達人間は、いつか必ず、本質へと至るのだと思います。それを例えると、山を登るのに藪を掻き分けたり、沢を濡れながら歩いたり、急登に息を切らしたり、絶壁を必死の思いで登ったりして、気がついたら頂上に到達してた、という感じでしょうか。
 私は、一日一日を「日々是聖日」と見ています。今立っている”ここ”、今いる”ここ”とは自分が選んだのでしょうが、必ず何か原因(縁なども)があり、意味があるのだと思います。それに気付くかどうかが大切なんだと思います。
そして、一人一人が辿る道は、遠回りだったり近道だったり様々ありますが、いずれにしても、その道はその人だけのものです。
私は、あたりまえの様に迎えている毎日を、「日々是聖日」と思うことで、なんとか前に進んで行ける気持ちになるのです。

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