愛そのものであれ
「どの様な時でも愛そのものであること、愛そのものを生きること」
私はこれを「すべての喜びや幸せを願い、すべての悩み、苦しみ、痛みなどが取り除かれることを願い、すべてを慈しみ、すべてを許し、すべてを愛し生きることである」と、
その様に認識しています。
この言葉を聞いた時からしばらくの間、”どの様な時でも”という状況を”貧乏どん底の時”という様な、いわゆる世間一般的に不遇とされる時と捉えていました。そして、しばらくはその概念をイメージしていろいろと考えていました。しかし、この”どの様な時でも”の解釈を間違えている事に最近気がつきました。
“どの様な時でも”とは、”貧乏の時”でも、”そこそこの時”でも、”富豪の時”でも、いわゆるいつでもということです。その事に初めから気付いてた方もいらっしゃると思いますが、私はこのことにしばらく気付きませんでした。でも、実際にどの様な時でも愛生きるというのは、なかなか難しいことかもしれません。
貧乏の時は、お金や気持ちに余裕が無くて、精神的に落ち込んだり、追い込まれたり、嫉妬に燃えたり、怒りに満ちているかもしれません。その様な時に”愛そのものを生きよ”などと言われたら、余計に腹が立つかもしれません。
そこそこの時は、現状を、”これでいいや”などと考えてしまい、何となくこのままで行こうと考えるかもしれません。だから、ことさら余計な事は考えようともせず、わざわざ愛生きるなどと深く考えないかもしれません。
富豪の時は、財、富、地位に恵まれて生活の心配は無いかもしれません。しかし、その位置を保つことに執着してしまうかもしれません。もしかしたら、財布の大きさや肩書きや持ち物などで人を測る様になるかもしれません。そうなると、自分より上の人に嫉妬したり、下の人を差別したりする様になるかもしれません。
いずれにしても”どの様な時”でも、分離感を持ってしまうと”愛生きること”は出来ないのだと思います。
三つのパターンを例に挙げました。その時々に、自分が無理なく与えられるものを与え、必要なものを受け取ること。そして、”どの様な時でも”与えることが基本であること。多くの人が、”与えること”が基本の世の中であれば、すべては共存、共栄、共生できること、逆に、”下さい下さい”が基本の世の中であれば、争いの世の中になることが容易に分かると思います。今までは”下さい下さい”の世の中を続けて来ました。私達はもうすぐにでもこの”下さい下さい”の思いを変えなければならない時に来ているのではないでしょうか。そうしないと本当に遅かれ早かれ私達の平和な暮らしは終わってしまうかもしれません。
愛そのものを生きることを意識することはとても大切だと思います。愛そのものを生きるとは、”生かして生きること”です。今は”奪って生きる、殺して生きる”世の中です。それを変えるにはどうすればいいのでしょうか。その為には、一人一人の思いを変えるしかありません。なぜなら、他人からこうしなさいと言われて、”はいそうですね”とは簡単には変えられないからです。何でもそうなのかもしれませんが、自ら納得しないと、自らの思いというのは変えられないと思います。一瞬一瞬の選択は自らしています。どの様なことに対してもです。自らの選択であることを意識しているかしていないかの違いがあるだけです。だから、自らの思い、言葉、行為を意識することはとても大切なことなのだと思います。
私達人間は、何かしらのパターンの繰り返しで生きています。それがどういうものかを意識しなくなると不調を来すかもしれません。例えば、嫌なことが続くとかです。それ自体自らの経験という意味では、良い悪いということではないのですが、その嫌だと思うことの原因は、他人に不快な思いをさせていることにあるのかもしれません。その原因を意識して自ら修正しなければ、その嫌なことがずっと続いてしまうかもしれません。それを修正するには、自分の思い、言葉、行為を意識しなければできません。時々自分が、どの様な思いを抱いているか、どの様な言葉を放っているか、どの様な行為をしているかなどを見つめてみると何かに気付くと思います。その気付きに対して、どう思うか、どの様な言葉や行為で表現するか、つまり対応の仕方で次が変わります。己を変えると周りも変わるということです。やはり、”すべての原因は我が内にあり”なのかもしれません。
私達人間は、なぜこんなにもいろいろなことがある大変な世の中に生きなければならないのでしょうか。またそんな世の中で、どの様に生きればいいのでしょうか。そのあるべき最上の生き方とは、私が思うに、一瞬一瞬
「愛そのものであれ、愛そのものを生きよ」です。
コメント