素晴らしい世界

意識

素晴らしい世界
 昨日書いた話の中で、目の前の事象について、”ただそうなだけ”という言葉を使いました。これが強調されてしまうと、この世というものが、なんとなく無味乾燥なものに見えてしまうかもしれません。”ただそうなだけ”
という言葉は、たしかにその様なイメージを与える言い方かもしれませんが、私の真意はそこにだけあるのではないのです。
世の中を、この特定のイメージだけで見てしまうと、この世はつまらないものと感じ見てしまう人もいるかもしれません。私が感じているのは、決してそうではなくて、この世は素晴らしい世界と感じているのです。これだけ長い間、世間一般的に良いこと悪いことなどいろいろあってもです。”ただそうなだけ”
という言葉を使ったのは、私達に日々現れる目の前の事象は、体験を通して気付きや学びを得る為であるということを言いたかったのです。だから、その一面や一つの意味合いにこだわらず、自分なりにイメージをいろいろと巡らせて頂ければと思います。
 この世は素晴らしい世界です。一人一人の思いが創り出している世界です。偶然ではありません。”愛するものは愛される”とか”殺すものは殺される”などの法則の元、一人一人のその思いで形作られています。そして、この世だからこそ味わえる感情や、肉体から得られる五感や、この世の概念、道徳などを元にする理性などで、より複雑な世界を創造しています。そこには男女のあり方、家族のあり方、社会のあり方などを通して様々なドラマが繰り広げられています。それら一つ一つから放たれる言葉や行為が天使の囁きであり天使の表現と言えるのだと思います。
なぜなら、私達一人一人は元々同じ命に生かされている存在だからです。一人一人が天の使いです。例外は一物一点もありません。すべては一元の愛そのものです。違いはそれぞれの放つバイブレーションです。自由意志で選択した思い、言葉、行為で自らを表現しているということです。だから、それらの表現を天使の囁き、天使の表現と言えると思うのです。
“ただそうなだけ”と言ったのは、「日々の生活に現れる目の前の事象に、必要以上に振り回されたり落ち込んだりしなくてもいいと思いますよ」ということを伝えたいのもありました。
どうしても言葉で伝えることには限界がありますので、いろいろな角度で伝えないとなかなか真意というのは伝わりにくいものです。それもあって、私は同じことを何度も角度を変えて書いているのです。例えば、同じことを、A.B.Cの三つのパターンで書いたとします。読む人によって、Aで理解する人、Bで理解する人、Cで理解する人、すべてで理解する人またはしない人、二つ分かるが、、、と様々です。だから言葉で伝えるのは難しいし、誤解も生まれるのです。またそれは当然なのかもしれません。波調が違えばキャッチできません。これも法則なのだと思います。本当は、テレパシーで意識のやり取りができたらいいのですが、この世ではほとんどの人ができません。でも、その様なテレパシーでの意思疎通というのは、肉体を脱いだらできる様になるのでしょう。そうなったら嘘はつけません。だから、今のうちに自らの意識を正しておくことが大事なことなのです。
たぶん私達は、今生では大元のレベルまでバイブレーションを上げようと意気込んで来たのに、また宿題を残して肉体を去り、やらなかったことに後悔して、また次こそは、などと同じことを延々と繰り返しているのだと思います。そんなことを繰り返せる素晴らしい世界が、今私達人間が、毎日をあたりまえの様に暮らしている”今ここ”というわけです。
「我肉体にあらず、五感にあらず、感情にあらず、理性にあらず、我命(大元)なり」
この本質(真理)を忘れないで、この素晴らしい世界で様々な経験ができたら、その素晴らしさをもっと味わうことが出来ると思うのです。

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